#582 もちょん

ちいさな物語

今日も残業を終え、疲れ切った体を引きずってアパートの自室に戻った。

ドアを開け、明かりをつける。

玄関から一歩入り、ふと部屋の隅にある木製の棚に目を向けたとき、違和感を覚えた。

棚の上に、見覚えのないものがある。

近づいて確認してみると、それはカピカピに乾燥したブロッコリーの芯だった。

「なんだこれ。俺、こんなとこにブロッコリーなんて置いてないけど……」

独り言を呟きながら、サトウはそれをゴミ箱に捨てた。

「あ、郵便受け見てくるの忘れてた」

サトウは、郵便受けを確認するために部屋を出て、鍵をかけた。

再び部屋の鍵を開け、ドアを開けて中に入る。

すると、どうだろう。

さっきまで何もなかったはずの棚の上に、今度は「新品の地下足袋(右足だけ)」が鎮座していた。

「は?」

サトウは思考を停止した。

郵便受けを見にいくとき、ちゃんと鍵をかけた。窓も閉まったままだ。

しかし、不法侵入されたとしても、置いていくものがおかしすぎる。

確かめるため、サトウはもう一度部屋を出た。念のため鍵もかけて、間を空ける。

そして、深呼吸をしてから、勢いよくドアを開けた。

棚の上には、「食べ終えた海老天のしっぽ」が置かれていた。

「おいおいおい、どういうことだ。誰かいるのか! 海老天食ったんか!」

あちこちの扉を開け、バスルーム、トイレ、クローゼット、放置していたAmazonのダンボール箱の中も確認した。念のため、空気清浄機のフィルターも外してみたが、誰もいない。

「よし、わかった」

サトウは、犯人を捕まえるための「罠」を仕掛けることにした。

普通ならスマホか何かを撮影モードにして立てかけておくなどの方法をとるだろうが、サトウの頭は混乱しすぎていた。

「海老天食ったんか」と、つぶやきながら、冷蔵庫から、中濃ソースを取り出し、それを床一面にぶちまけた。

「フッ、これなら足跡が残る。さすがにソースで汚れながら、棚に何か置く根性はないだろ」

準備は整った。

サトウはまた、部屋を出てドアを閉めた。そして律儀に鍵をかける。

五分後。

サトウはプロレスラーがリングインするような勢いで、ドアを蹴破るように開けた。

「うおりぁ!」

しかし、そこには予想外の景色が広がっていた。

床にぶちまけたはずの中濃ソースは、ピカピカに拭き取られ――いや、もとよりきれいになっている気さえする。

そして肝心の棚の上には、「穴杓子」が置いてあった。

「拭き掃除してくれた上に、穴杓子……だと……」

サトウが呆然としていると、部屋の隅からカサリと音がした。

見ると、そこには身長三十センチほどの、二足歩行をするキュウリが立っていた。着物のようなものを着ている。何かのキャラクターみたいに見えた。

キュウリはつぶらな瞳でサトウを見つめると、突然、胸の前で両腕をクロスさせ、片足を高く上げるポーズをとった。

「キュピーン! 私は、キュウリの妖精『もちょん』!」

「喋った! いや、それより棚の上の物はなんなんだよ!」

サトウの叫びに、もちょんは真顔で答えた。

「これは、宇宙のバランスを整えるための等価交換だ。お前が部屋を出入りするたび、世界の確率が乱れ、別の世界の『物』が溢れ出してしまうのだ。それを止めるには、棚の上に、指定された供物を置かなければならない」

「どういう理屈だよ。それっぽく聞こえもしないデタラメを言うな。――それで、指定された供物とはなんだ?」

「お父さんのパンツ」

「それ――誰に捧げるんだ?」

サトウが頭を抱えたその時、もちょんは懐から、一本のちくわを取り出した。

そして、ちくわを両手に持ち、華麗なヌンチャクさばきを披露し始めた。

「ハッ! サトウくん、ちくわの穴を通して世界を見つめるんだ! そうすれば、全ての悩みは、揚げ玉のように弾けて消える!」

「例えがおかしい! いや、ちょっと待て。なんでちくわを振り回してるんだよ!」

もちょんは無言でちくわを振り回し続ける。そのスイングスピードは音速を超え、衝撃波が部屋を揺らした。

「おい、やめろ! 部屋が散らかる!」

サトウの制止も虚しく、衝撃波によって部屋の壁が剥がれ、天井が崩れ落ちた。

しかし、崩れ落ちた天井の向こうには、夜空ではなく、なぜか一面に鮭フレークが広がっていた。

サトウは全てを諦め鮭フレークに身を委ねた。塩気がたまらない。近くに漂ってきた鮭フレークを口に入れる。

しかし、口の中に広がったのは魚の旨味ではなく、無機質なプラスチックの味だった。

サトウが噛み締めていたのは、鮭の切り身ではなく大きな三角定規だった。

「春の大三角!」

もちょんが叫ぶ。

「そんなのあったっけ?」

「あるよ!」

「そっか……」

ふっと、母が昔、きゅうりと鮭フレークのちらし寿司を作ってくれたことを思い出した。

春風に吹かれた鮭フレークがベシベシと頬に当たった。

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