#587 誘人木

ちいさな物語

去年の秋のことだ。

引っ越してきたばかりの一軒家の庭に、見慣れない木が一本立っていた。

不動産屋に聞いても「前の住人が植えたんでしょう」と言っただけだった。

樹高は2メートルほど。幹は妙にねじれていて、葉は濃い緑なのに光の当たり具合によっては青みがかって見える。名前もわからない木だが、妙に気にかかった。

引っ越してきた翌週、その木に実がついた。

最初は五つか六つ。親指の先ほどの大きさで、深い赤というか、ほとんど黒に近い色をしていた。触るとぷにぷにしていて、柔らかすぎるくらい柔らかい。匂いを嗅ぐと、甘いような、少し土臭いような、不思議な香りがした。

僕があまりにも気にするせいか、妻は「食べないほうがいいんじゃない」とあらかじめ忠告した。後から考えると、その判断は正しかったと言わざるを得ない。

ある晩、僕は一つだけその実を口に入れてしまった。理由は今でもうまく説明できない。ただ、なんとなく、吸い寄せられるように木に近づいて、ためらいなく実を口に入れてしまったのだ。思い返せば、そこには何らかの力が働いていたのかもしれない。

――味は、甘かった。果物というよりも、甘味料に近い甘さ、とでも言うべきか。

その後、子どもの頃に祖父の家で飲んだ麦茶の味が口の中に広がったような気がした。縁側で、蝉の声を聞きながら、冷えた麦茶を一気に飲み干したあの夏の感覚。二十年以上忘れていたものが、突然戻ってきた。

木の実特有の渋さというか、えぐみというか、そういうものが作用したのかもしれない。

その夜は、不思議なほどよく眠れた。

翌朝、庭を見ると、実が倍以上に増えていた。昨日まで六つだったはずなのに、数えると十個以上ある。

十月の終わりには、実の数がさらに増えていた。五十を超えているように見える。

近所の人に話すと、田中さんという七十代のおじいさんが「ああ、あの家の木か」と少し渋い顔をする。

「前に住んでいた人も、同じことを言っていたよ。実がどんどん増えて怖いって」

「怖い? ――その人は実を、その、食べている様子でしたか?」

「さあ。でも、急に引っ越していったね。理由は聞かなかったけど」

それを聞いてから、さらに木が気になりはじめた。

ある夜、妻が先に寝た後、僕は庭に出た。暗闇の中でも、実の赤黒い色だけははっきり見えた。一つ取って、また口に入れた。

今度も、甘かった。そして今度は、父の声が聞こえた気がした。

十年前に亡くなった父が、『お前はちゃんとやってるか』と言った気がした。夢でもなく、幻覚でもなく、ただ、耳の奥のどこかから聞こえてくる感じ。涙が出た。なぜ泣いているのか自分でもわからないまま、しばらく庭に立ちつくしていた。

次の朝、実はまた増えていた。そして、木が少し大きくなっているような気がする。

僕の手の届かないところまで枝が伸びていた。妻も「なんか、大きくなってない?」と言った。

僕はもう、実を食べるのをやめようと思った。前の住人が「怖い」と言った意味がわかる気がしてきたからだ。あまりにも人を惹きつける力が強いように思う。

だが、その夜また庭に引き寄せられた。気づくと外に出ていて、手に実を持っていた。そして食べた。

今度は何も思い出さなかった。少しがっかりした。

翌朝、恐ろしくなって庭に出るのをやめることにした。

木は今も庭にある。冬になっても葉が落ちなかった。実も落ちない。ただ、増え続けている。

「ねぇ、『被食散布』って知ってる?」

妻が突然そんなことを言った。

「実の甘さや栄養を報酬に鳥なんかに種を運ばせる植物のことよ」

妻はなぜ急にそんな話をするのだろうか。

「まさか。あの木が人間を誘って、わざと実を食べさせようとしているって言うの?」

「でも人間に食べさせたってトイレに流れるだけじゃないか」

僕が重ねていうと、妻は「――それもそうね」と言って曖昧に笑った。

そういえば、前の住人は急に引っ越してしまったのではなかったか。甘い思い出の幻想を報酬に実を食べさせ、種を遠くへ運ばせるのか?

僕はハッとした。

実を体にいっぱい蓄えた体で遠くへ行って、そのまま倒れたら? 種はたくさんの栄養を自動的に手に入れることになる。

その不気味な生態で有名な寄生虫ロイコクロリディウムを思い出してゾッとした。前の住人の引っ越し先はどこだったのだろう。

そういえば引っ越してすぐにあの木は実をつけ始めた。そして、ひとつ食べた後に爆発的に増え始めた。僕の存在を認識しているのか?

先月、思い切って木を切ろうとした。ノコギリを当てたとき、木がわずかに揺れた。風もないのに。

――切るのをやめた。

妻にはそのうち業者を呼んで処分しようと言っているが、なぜか実行に移せないでいる。

昨夜、また夢を見た。庭に立って、実を食べている自分の夢だ。目が覚めると、無性に庭に出たくなった。

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