乗り込んだ新幹線は、ほぼ満席だった。
指定席に座って一息つくと、前の席に座った乗客がすぐさまリクライニングを倒した。
「おっ、随分と豪快だな……」
私は少し窮屈になったスペースで、心の中で呟いた。
気になって目を上げると、前の席の乗客は窓際の席に悠然と座る中年男性。ゆったりと新聞を広げた後、足元のバッグから何かを取り出した。
「ん? それ、まさか、電気ケトル?」
私は目を疑った。彼は小型の電気ケトルを席に置き、なんとテーブルのコンセントにコードを挿してお湯を沸かし始めたのだ。
(いやいや、これはダメだろう……)と思いつつも、辺りに乗務員はいない。変な人かもしれないので、直接注意するのははばかられる。
周囲の乗客も驚いた顔をしているが、本人はまったく意に介していなかった。
数分後、かすかな湯気が立ち上るのが見え、彼は堂々とポットから湯を注ぎ始めた。
「まさかここでカップ麺……いや、違う?」
彼が取り出したのは、きちんとした塗りのお椀と味噌汁の具材だった。
密封ケースに戻したわかめ、豆腐、刻みネギまで揃えている。味噌はラップに包んであった。
あっという間に、本格的な味噌汁が目の前で完成する。
(マジかよ。これは尋常じゃない変人だぞ……)
私は心の中で小さく実況を始めていた。
さらに彼はテーブルを大きく広げ、巨大な弁当箱を取り出した。それもただの駅弁サイズではない。おせち料理の重箱を思わせる三段重だ。わざわざ料亭から買って来たのか?
(え……、コース料理?)
一段目を開けると、中には前菜が整然と並べられていた。スモークサーモン、生ハム、オリーブの実。小洒落たレストラン顔負けだ。
続いて二段目を開けると、そこにはステーキと温野菜がきれいに盛られている。なんとその横に、小さな保温プレートまで設置し、肉を温め直し始めた。
(ここ、新幹線ですよね? あなたのプライベートキッチンじゃないですよね?)
心の中で、ツッコミを入れざるを得ない。
彼は優雅にナイフとフォークを使い、ステーキをゆっくり味わっている。車内に漂う美味しそうな匂いが、私のお腹を空腹にさせてしまう。
クソッと私はうまい棒をかじって空腹をしのぐ。辺りにジャンクな香りが広がった。通路を挟んだ隣の乗客はポテチの袋をバリッと開けると酎ハイ片手に貪り始めた。同志よ!
三段目には、デザートとフルーツが控えていた。小さなケーキやイチゴ、メロンまで。
(この人、本当に新幹線に何をしに来ているんだろう……)
しかし、彼のくつろぎはこれだけでは終わらない。
食後、彼が取り出したのは奇妙な形の機械。首に巻きつけると、静かにブルブルと振動し始めた。
(マッサージ機まで!?)
そしていったんマッサージ機を止めると、鞄から13インチほどのタブレットを取り出して設置し、アクション映画を見始めた。
もはや周囲の視線は、完全に彼に釘付けだ。だが、彼は周囲の視線もなんのその、まるで自宅のソファでくつろいでいるような様子だ。
やがて車掌が通りかかった。私は「ついに注意される!」と内心ドキドキしたが、ちらりと視線を向けただけで、そのまま通り過ぎてしまった。
(そうか。一連の挙動を見ていると、断然おかしいが、今はマッサージ機を使いながら映画を見てるだけだ)
到着駅まで残りわずかとなった頃、彼は満足げにマッサージ機を外し、荷物を片付け始めた。
彼がゆったりと席を立つと、その表情は完全にリラックスしているのがわかった。むしろ、降りるときに軽く伸びをしている彼の方が、周りの窮屈そうな乗客よりよほど健康的に見えた。
私も駅で降り、前の席の男性を追うようにホームへと向かう。気になってしばらく見守っていたが、少し荷物が多いだけのただの乗客という感じで人々の群れに埋もれてしまう。
世の中には本当にいろんな人がいるものだな。私は感心しながら、駅を後にした。
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