「あの『笑いの通り魔』って、実は幽霊らしいよ」
そんな話を聞いたのは数日前、会社帰りの居酒屋だった。
街で噂の『笑いの通り魔』とは、夜道を一人で歩いていると、突然現れてジョークを叫び、人を笑わせて去っていくという謎の存在らしい。
物騒な話ならごめんだが、笑わせるだけだからむしろ平和な怪談だ。
しかし、幽霊だなんていくらなんでも――。
「まさか」と笑い飛ばしたが、帰り道に妙な気配を感じた。
薄暗い路地に入ると、背後から低い声が響いた。
「お兄さん、いいジョーク知ってるかい?」
振り返ると、ピンクのスーツにピエロ風のメイクをした男が立っていた。顔は白塗りで口元だけが異様に赤く、怪しく微笑んでいる。
心臓が高鳴った。これがあの『笑いの通り魔』か。
「い、いや……特には」
「じゃあ教えてあげるよ、最高のやつを」
男は一歩近づいてきた。
「サンドイッチがうどんとおにぎりとパスタをダンスパーティに招いたんだ。しかし、元気がないヤツがいた。誰だと思う?」
僕は緊張しながらも口を開いた。
「え? わからないけど……」
「おにぎりだよ。ノリ(海苔)きれなかったんだ」
その瞬間、僕はなぜか全身を貫くほどの強烈な笑いに襲われた。笑いが止まらず涙が溢れ、道端にしゃがみ込んだ。
男は嬉しそうに微笑むと、手を振って消えてしまった。
翌日、昨夜の話を会社の先輩にすると、彼は真顔で言った。
「それ、本当に幽霊かもしれないぞ。そのジョーク、聞いたことがある」
「もしかしてお兄さんの友達の?」
別の先輩が声を潜める。
「ああ。兄の友人でコメディアンを目指していたやつが交通事故で亡くなったって。その人の持ちネタだって聞いたことがあるな」
その日の帰り道、僕はまたあの路地を通った。すると昨夜と同じ場所に、彼が立っていた。
「また会ったね! 今日も笑わせてあげるよ!」
男の姿にはやけに現実感があった。幽霊にはあまり見えない。
「ちょっと待って……噂で聞いたんだけど、きみは幽霊なの?」
すると男は、困ったように肩をすくめてみせた。
「さてね。僕自身、よくわからないんだ。僕はここにいて、ジョークを言う。ただそれだけ」
「じゃあ……なぜここで、なぜ僕なの?」
「君がたまたまここを通ったからさ」
「もしかして、きみはずっと、ここでこうしてるの?」
男は黙って、遠くを見る。
「さあ、わからないよ。本当に何もわからない。ただ人が通ると無性に、楽しませてあげたくなるんだ。本当にそれだけで理由なんて他にないよ」
それきり男は何も言わず、こちらに背を向けて路地の闇に溶けた。
僕はぽつんと取り残されてしまった。彼は結局ジョークも言わずに立ち去ってしまったのだ。
相変わらず、街では「笑いの通り魔」の噂がちらほらと聞こえていた。
本物の幽霊か、少し変わった人間か、それともただの都市伝説か。真相は誰にもわからない。
けれど、夜道を歩いていると、ふと誰かの低い声がどこから聞こえる気がして、僕はつい歩調を速めるようになった。
それでも、あのくだらないジョークをまた聞きたくなっている自分は少しおかしくなっているのだろうか。
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