#294 三つの扉

ちいさな物語

古い屋敷の奥、埃まみれの廊下の突き当たりに、三つの扉が静かに並んでいた。噂には聞いたことがあったが、本当にあるとは思わなかった。

金色、銀色、そして黒――いずれも古びた装飾がなされているが、妙に目を引く輝きを放っている。

私は親戚の遺品整理の手伝いをしていた。なぜか片付けに来た親族の何人かは「もう屋敷に入りたくない」、「自分には手に負えない」と、遺品整理を拒否していた。

――そうして、自分が来ることになったのだ。

山奥のその屋敷は、幼い頃に一度だけ訪れた記憶があるものの、そのときは扉は見なかった。子どものときの曖昧な記憶だと、ここはそのまま真っ直ぐ廊下が伸びていたはずだが――

屋敷の空気はひんやりとしていて、廊下を歩くたびに埃が舞い上がる。家財道具はほとんどが時代遅れで、何もかもが遠い昔のままだった。

三つの扉の前に立ったとき、不意に誰かに「開けるのならば、覚悟しろ」と言われたような気がした。

振り返っても誰もいない。思い過ごしだろうか。私は吸い寄せられるように扉の取っ手に手をかけた。

まず、金の扉をそっと押してみた。

ぎぃ、と重い音がして、扉はゆっくりと開く。その中には、豪奢な調度品と美しいシャンデリア、壁一面に黄金色の鏡が飾られている。しかし鏡に映る自分の姿はどこかぼやけていて、どんなに目を凝らしても輪郭がはっきりしない。鏡が曇っているのだろう。

部屋の奥からはささやき声が聞こえてきた。「選ぶのは慎重に……本当に欲しいものは何?」私は直感的にこの部屋にいてはいけないと感じ、そっと扉を閉じた。

次に銀の扉。

こちらは軽やかな音を立てて開いた。中は薄暗く、壁にはぎっしりと本が並んでいた。あまりに静かで紙魚が本を食む音すら聞こえそうだった。

本棚からひとつの本が落ちてきて、パラパラとページがめくれる。

「迷ったときは、智慧を求めよ」と、どこかから声が聞こえた。けれど、それが本当に自分に必要なのかどうかは分からなかった。

私はまた扉を閉じ、最後の黒い扉の前に立つ。

黒の扉だけは、なぜか異様なほど重々しく、開けることに強い抵抗を感じた。それでも勇気を振り絞って取っ手を回す。扉の中は暗闇で何も見えない。だが、耳を澄ませると自分の鼓動と共に、遠くで鈴のような音が聞こえた。「あなたの恐れは、ここにある」と、低い声が響いた。思わず後ずさりし、扉を閉めた。

三つの扉。それぞれが何かを暗喩している。

金は欲望や虚栄、銀は知識や智慧、黒は恐れや本質。

それに気づいたとき、背後で何かがきしむ音がした。振り返ると、廊下の先に影が立っていた。

幼い頃に見たこの屋敷の主のような気がしたが、確かではない。いや、亡くなっているはずなので、違うだろう。

「さて、どの扉を選ぶ?」

影は静かにそう囁いた。その問いかけに私はしばし考えた。この先の部屋の遺品を整理しなくてはならないが、すべての部屋が袋小路になっていた気がする。――で、あれば、これは何らかの試しだろう。

私は深呼吸をして、もう一度三つの扉の前に立つ。

今度は、どれも開けない。そっと目を閉じた。

どれも必要であり、どれも必要ではない。

欲望がなければ空虚になる。智慧がなければ愚鈍になる。恐怖がなければ無謀になる。しかし必要以上に求めれば、破滅する。

――だから、今ある以上に必要ではない。

その瞬間、屋敷全体の空気が和らいだ気がした。ふと目を開けると、三つの扉は消えていた。代わりに、埃にまみれた廊下が続いている。

「見事だ。おぬしにこの屋敷を譲ろう」

先ほどの何者かの囁き声が聞こえた。私は廊下へと踏み出した。

あの屋敷の奥で経験した、あの静かな選択の時間を、私はこれからもきっと思い出すだろう。

人生の分かれ道に立ったとき、また三つの扉が心に浮かぶに違いない。

屋敷は丁寧に片付け、別の親戚が更地にしてその土地を売ったらしい。手間賃として、口座にいくらか入金があったようだが、それはまだ確認していない。あの屋敷の主になる権利は、いかほどの価値があったのだろうか。

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