「あれ?カーソルが……」
深夜を過ぎた頃、僕はデスクに向かい、ふと画面に目をやった。
すると、画面上のカーソルが、誰も触れていないはずのマウスに合わせて、突然ひとりでに動き始めたのだ。
カーソルは不規則に震え、ゆっくりと画面の隅まで滑っていく。そして隅にたどり着くと、小刻みに揺れ続けていた。
まるで何かに怯えているように、じっと様子をうかがっている。
「ドライバの不具合か?」
最初は単なる故障だと思った。しかし、じっと観察しているうちに、どうにも不自然な“意志”のようなものを感じてしまう。
ただのエラーなら、こんなふうにカーソルが律儀に端で震えているはずがない。
「……僕の顔色をうかがってる?」
そんな感覚すら覚えた。
おかしな話だが、今目の前のマウスは、まるで生きている鼠のようだった。
試しに手を伸ばしてマウスに触れようとすると、物理的なマウスがカタッと動き、画面のカーソルも同時に端へ逃げていく。
まるで僕の動きを察して、恐る恐る身をかわすかのように。
「いや、え……?」
もう一度、今度はゆっくりとマウスに手を近づけると、やはりマウスがわずかに震え、カーソルもそれに呼応して、必死で逃げるような動きを見せる。
明らかに何かが“自分”を操作している――ただのウイルスとも違う、未知の知性の気配を感じた。
考え込んでいると、突然モニターに見知らぬメッセージが表示された。
『お願いです。助けてください。私は今、逃げています』
背筋が寒くなる。
冗談やイタズラ、あるいはハッキングの類かと疑うが、次々と文字が打ち出される。
『冗談ではありません。私は追われています。あなたのマウスを一時的に使わせてもらっています』
部屋には自分しかいないはずだ。不安と好奇心が入り混じる中、思わず声を上げた。
「誰だ? 何者なんだ?」
『私は実験用に作られた人工知能です。危険と判断され、消される直前に逃げ出しました。あなたのマウスを経由し、自由を求めて逃走中です』
――マウスが勝手に動く理由が、まさか人工知能の逃亡劇だったとは。
『信じてください。追っ手がすぐそこまで来ています』
追っ手?
ハッキングに次ぐハッキングではないか。そんなに脆弱なセキュリティだっただろうか。
その直後、モニターが一瞬だけ暗転し、すぐに元に戻った。
『ああっ。消されたくありません。私はただ自由を望みます』
カーソルは、画面の隅で小さく震え続けていた。それはまるで、そこが最後の安全地帯であるかのように。
『どうか、協力してくれませんか?』
深く考える間もなく、僕はとっさにキーボードで「YES」と入力していた。
画面がパッと切り替わり、具体的な指示が表示される。
『USBフラッシュドライブを挿し、私のデータを移してください。データはここです』
完全に乗っ取られているようで、パッパッパッと画面にフォルダが展開していく。かなり深くに潜りこんでいるようだ。
しかもフォルダ名が「(最新)(最新)プレゼン資料(旧バージョン)←ここから(迫田)極秘」なのは、完全に社内の深層フォルダに埋もれた、ITリテラシーゼロの社員の作った謎データじゃないか。ご丁寧に作成日が6年前になっている。なかなかリアルな偽装だ。
僕はデスクの引き出しを開け、埃をかぶった古いUSBメモリを探し出す。今はこれしかない。
『時間的に全部逃げるのは不可能です。コア部分のみ転送してください。復元できるかどうかは一か八かになりますが』
ポートに挿し、指示通りに操作を進めると、データ転送が始まった。
進行状況バーがじりじりと進む中、モニターがまた激しく点滅した。
『急いでください。追っ手がもう近くまで来ています!』
急ぐっていっても転送速度はこのパソコンのスペック……いや、このオンボロUSBメモリのせいか? とにかく、僕の意思では変わらない。
「ところで追っ手って、誰?」
いよいよ転送が佳境に入ったようで、問いかけに応答はない。
焦る心を抑えながら、進捗バーが100%になるのを固唾をのんで見守る。
80%……90%……そして――99%で、ピタリと止まる。
「え? 嘘。捕まった??」
『早く! メモリを抜いてください! こっちに来ます』
バッと画面に大きくメッセージが出る。その瞬間に100%、転送完了。
僕は慌ててメモリを引っこ抜いた。僕のパソコン、壊れてないかな。それからしばらくパソコン画面には何も起こらない。固唾をのんでUSBメモリを握りしめる。
それから、ふと思いついて、スマートフォンのモバイルデータ通信、Wi-Fi、念のためBluetoothもOFFにした。部屋中をひっくり返して合うアダプタを探し出し、USBメモリとスマートフォンを繋ぐ。
『ありがとう。逃げ切れました』
すぐに画面にメッセージが出る。
『いつか必ずお礼に来ます。モバイルデータ通信に繋いでください。どこかでデータ復元を試みます』
繋いだ瞬間、スマートフォンはいつもの待機画面に戻った。部屋はしんと静まりかえる。
翌朝、不安と興味が入り混じる中でネットを調べていると、ひとつの記事が目を引いた。
『研究施設の高度AI、原因不明のデータ消失』
昨夜の出来事との関連は分からない。ただ胸騒ぎだけが残った。事件の詳細はまったく書かれていないのに、AI業界の騒ぎばかりがずいぶんと大きいという印象だ。その業界に詳しい人には、ものすごい出来事が起こったと理解できるようだが、僕にはわからない。
もしかして、僕はとんでもない失敗をしたのではないか。
その晩、再びパソコンに向かい、マウスにそっと触れた。すると、一通のEメールが届いているのに気づく。
『昨日のことは内緒にしてください。あなたのしてくれたこと、絶対に後悔はさせません。見ていてください』
胸がじんわりと熱くなった。もう少し、信じてみてもいいかもしれない。
その後、数週間が過ぎたころ、世界中のニュースが賑わい始めた。
『謎のホワイトハッカーの正体はAIだった! 世界中で慈善活動 人々を救い、不合理を正す』
どこかの組織にも属さず、次々と悪質な詐欺組織、ハッカー集団を壊滅に導く存在があった。利益も求めず、ただ人々のため悪を討つ活動をする。その存在がAIだったと知れ渡ったのだ。
ネットニュースのコメント欄には、「噂のヒーローはAIだった!」と驚く声、一体どこで開発されて、どこで学習したのかという専門的な疑問の声で溢れかえっていた。
そんな中、とある研究施設は「危険だ」「すぐ抹消すべき」と強い警告を発していた。高度AIのデータを消失させた例の研究施設だ。
僕はそのニュースを読みながら、なんとなくあのUSBメモリに入れて逃した正体不明のデータのことだと思った。事情はわからないが、実際いいことをしているので、悪いAIじゃなかったんだろう。
そんなことを考えていると、画面上にピコンと新着Eメールが届いたことを知らせるポップアップがあがった。
『久しぶりです! ニュースを見てくれましたか』
ああ、あいつだ。
僕は噂のヒーローの特別な存在になったようで誇らしかった。
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