#307 虹の終点、ランティス渓谷で

ちいさな物語

僕らの旅は風まかせ。一応、冒険者を名乗っているが、危険なことは一切しない。

いつも前を歩くのは快活なカナ、風景をスケッチするのは双子の妹のリナ、そして僕――地図と胃袋を預かっている。ほんのちょっとだけ剣が扱えなくはないが、この旅に出てから一度も抜いたことはない。

「イオネル! あれ!」

カナが指差すところに「ランティス渓谷」という看板が見える。さっそくリナがスケッチ帳に看板をスケッチする。相変わらず見事なものだ。

それからリナは空を見上げて「降るよ」と囁いた。

僕らは「魔物退治は猛者に任せて、観光とグルメの旅を」を合言葉に旅をしている。今回は雨季の終わりにだけ開くランティス渓谷の市場を目指していた。

雨に降られながら僕らは駆け足で、ランティス渓谷へ降り立った。すでに夕刻になっている。

空は雨の名残で湿り、虹の輪郭が輪切りのシトラスみたいに淡く漂っている。

宿の玄関で、老婆が溜め息を落とす。

「ここには虹が砕けて落ちる場所があるんだよ。最近は“虹喰い”が出て、欠片を盗むんだ。我々の取り分がなくなっちまうよ」

虹喰い――幼い頃に聞いた魔獣だ。色彩を貪ると聞く。

ランティス渓谷の町の人々は虹の欠片から、時間をかけて虹細工をこしらえ、雨季の終わりの市場で売って生活をしていた。

僕らは顔を見合わせた。町のギルドの受付に確認すると、腕利きの冒険者たちは報酬の多いドラゴン退治へ回され、虹喰いなんて見向きもしない。

カナがめずらしく黙って考え込んでいる。

「魔物は強い人たちに任せる約束だったろ?」

僕が言うと、カナは肩をすくめる。

「わかってるよ。でも、《退治》できなくても、私たちにはイオネルの《料理》があるじゃない。イオネルの料理を前に我慢できるやつなんていない。虹喰いの好物を作れば、危険もなくて、ちょっとした路銀が手に入る」

ふうむ。確かに悪いアイディアではない。

リナがスケッチ帳に〈虹の味覚分布図〉を走らせる。赤は辛味、橙は爽やかな酸味――色ごとに微細な香気があるらしい。リナの分析はいつも的確だ。

僕はリナの分布図を参考に鍋を振るった。虹喰いが飛びつくとっておきだ。

カナは渓谷に、作戦の要となる〈材料〉をとりに行く。身軽で行動力があるのがカナの強みだ。

夜明け前、市場の裏手で三人は即席の屋台を構えた。

ランタンの灯りに照らされた帆布の幕に「虹のシチュー、無料試食」の文字。鍋の中ではトマトとオレンジとサフランが層をつくり、七色に渦を巻く。

やがて霧の底から現れた影が、鍋の匂いに引き寄せられる。毛並みは闇より黒いのに、体の輪郭だけが虹色にほつれていた。――虹喰いだ。

カナが木杓子を振る。

「ほうら、うちの優秀なシェフ自慢の“渓谷の虹仕立て”よ。一口いかが?」

魔獣は舌のような形になった霧でシチューを啜る。すると輪郭の虹が柔らかくほどけ、黒い躯は風に溶けてするりと消えた。虹の欠片だけが地面に残り、朝日を吸って宝石のように輝く。

隠れて様子を見ていた老婆たちが駆け寄って来た。

「アイツらをやっつけたのかい?」

「いいえ。あれにはねむり薬が入っているの。たっぷり百年くらいは目覚めないはず」

リナは虹喰いが落とした欠片を拾い、老婆たちに渓谷への案内を乞う。そこに不要な“虹を捨てる丘”があった。色褪せた虹片が、朝露の草原に静かに眠る。リナはその場所をスケッチしたいのだ。

「忘れられた虹は寂しくなんてない。でも、人に見てもらえれば、少し嬉しい」

リナはそっとスケッチ帳を開き、丘の全景を描き写す。鉛筆の線に淡い水彩を重ねると、欠片たちはほのかに光を帯びた。

帰路、渓谷の市場は再び賑わっていた。僕らの提供した鍋(もちろんねむり薬は入っていない)はすっかり空っぽ、代わりにもらった虹を模したクッキー、色鮮やかなソーダ、虹色の美しいお菓子が所狭しと並んでいる。

「魔物退治は強い人たちがするもの――だけど、強さにはいろんな形があるんだね」

カナが虹色のキャンディを舐めながら笑う。

「うん。私たちは結構強い」

めずらしくリナも笑っている。

僕は頷き、二人の前に湯気の立つ皿を置いた。

「人気があったから、また作ったよ」

二人がぱあっと顔を輝かせる。

虹の欠片のように彩り豊かな昼食が、今日の旅の勲章になる。

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