その街の路地裏には、看板のない小さな食堂があるという。この食堂の主人は、『怪談ハンター』と呼ばれる奇妙な男だ。
「お客さん、怖い話はお好きですか?」
店主は、訪れた客にいつもそんなふうに問いかけるらしい。
――ある蒸し暑い夏の日、私は偶然その食堂に迷い込んだ。店の名前は聞いたことがあったので、「ああ、ここにあったのか」と興味をひかれた。
薄暗い店内には、ゆらゆらと揺れるランプが灯り、壁一面には古びた本や奇妙な置物が並んでいる。噂通り怪談趣味をそそる内装で、ますます期待が高まる。
カウンターの奥に立つ店主は、にこりと笑った。
「いらっしゃい。怖い話はお好きですか? お好きであれば奮発しますよ」
不思議な笑みを浮かべるその店主の問いに、私は思わず頷いた。噂によると、この店では食事だけでなく、話を味わうことができる店らしい。他に客もいないのでゆっくりできそうだ。
店主が指した椅子に腰掛けると、彼は調理台で手早く何かを作り、皿に乗せて私の前に置いた。
それは、小さなクラッカーにのった生ハムとチーズ、そこに黒胡椒をふりかけたおしゃれなアミューズだった。しかし、その横に存在感のあるハーブのような葉っぱが添えられている。
「話がよく染み込む薬のようなものです。心配しないでください。法律に抵触するような物じゃないですよ」
店主は冗談である証のように軽いウインクをする。さして警戒することもなく、私はクラッカーとその葉を口にした。さっぱりとした清涼感のある香草だ。チーズと生ハムによく合っていておいしかった。
やがて全身が不思議な温かさに包まれ、聴覚が研ぎ澄まされるような気がしてくる。本当に法律に抵触しない物なのか、一瞬不安がよぎる。
店主がバゲットとスープをテーブルに並べてから、ゆっくりと話し始めた。
「では、ひとつお聞かせしましょう。これは、かつて私自身が体験した、私の現状の根本に関わるお話です……」
彼の声は低く静かで、まるで心の奥に直接響いてくるようだった。
――昔、ある山奥の村に怪談好きを自称する若者がいた。その若者は、各地を巡り、奇妙な話や不気味な噂を集めていた。民俗学なども聞きかじり、怪談に独自の解釈など加えたりして、とくとくと語っていたものだった。
ある日、若者は村外れの小さな社で、ひとりの老人と出会った。老人は彼にこう言った。
「そのような話ばかり集めていると、とりこまれるぞ」
若者は笑ってそれを無視したが、やがて村で奇妙な出来事が続くようになった。
村人が消えたり、夜な夜な不気味な囁き声が響いたりした。村人たちはそれを、若者が気味の悪い話ばかりするせいだと考え、彼を村から追い出してしまった。
バカバカしいと思うかもしれないが、昔ながらの閉鎖的な村ではそういうことがよくあったんだ。
だが、その後も奇妙な現象は止まなかったという。
その後、若者はあの忠告をしてくれた老人にこっそり会いに行った。すると老人は静かに語った。
「お前が集めた怪談は、ただの話ではない。それらはお前自身に共鳴し、実体を得てしまったんだ」
「実体?」
「話そのものが意思をもち、災いをなす。そういうことは稀にある」
若者はぞっとして、自分が集めた話をメモした大切なノートを燃やしたが、その物語たちは既に彼の体の中に染み込んでしまっていた。何千話と集めたはずだが、どの話も即座に思い出すことができるのだ。怪談は消えなかった。
逃げ場を失った若者は、また老人に相談した。
老人は「一人であまりにたくさんの怪談を抱えているのがよくない」と言ったという。
具体的にどうすればいいのか、若者はいろいろ考えた末に、街の片隅に小さな食堂を開いた。
彼はそこで、自分に取り込まれた怪談を訪れた客に話すことで、少しずつ外へ逃がすことにしたのだという。
話を聞き終えた私は、すっと身体が冷え込むのを感じた。
「まさか、それはこの食堂の……」
「ええ、ですから、私の現状に関わるお話ですよ」
店主の表情は穏やかだが、目の奥に隠された影が揺れているように見えた。
「さて、あなたは私の話を聞きましたね?」
店主の口調が変わったことに気づき、私は不安を覚えた。
「どういう意味ですか?」
店主は静かに笑った。
「私が話すたびに、この店に訪れるお客様に私の中の『怪談』を少しずつお分けしているのです」
私は立ち上がろうとしたが、身体が重く動かない。店主はゆっくりと私に近づき、耳元で囁いた。
「安心してください。痛くも怖くもありません。もともと、怖い話がお好きでしょう。これからあなたにも私の怪談の語り手になってもらうだけです。あなたが話してくれれば、私に蓄積した災いも散り散りになります」
彼の言葉を聞きながら、私は意識が少しずつぼやけていくのを感じた。
目が覚めた時、私は自室のベッドの上だった。夢だったのかと、いつも通り出勤の支度をする。
しかし、昼になり同僚と食事にでると、私は知らないうちに口を開いていた。
「そういえばさ――怖い話とか……好き?」
「え? 急に何? 嫌いじゃないけどさ。何かあるの?」
同僚はちょっと驚いたような顔をしたが、私の方がもっと驚いていた。
私の口からは聞いたこともない怪談が、次々と流れ出てくるのだ。
村の古いお堂に籠っている1つ目の妖怪の話、自殺者が多発するビルの屋上で見えた何か、事故の多い交差点で見かける薄っすらと透けた女性、昔から河童が住むと言われる川を埋めたときに起こった大規模な事故……。
こんな話は知らない。聞いたことがない。目の前の同僚の顔がみるみる青ざめていった。
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