#331 隣の子供

ちいさな物語

新しく引っ越したアパートは、築年数こそ古いが部屋も綺麗で家賃も安かった。

駅からも近く、周辺環境も申し分ない。

「掘り出し物だな」

そう思って喜んでいたのも束の間だった。引っ越して数日後、夜遅く仕事から帰り、ベッドに横たわった時のことだ。

隣の部屋から、小さな笑い声が聞こえた。

子供が遊んでいるような、軽く楽しげな声だった。特に気にするほどの音量でもない。壁の薄さを少しだけ悔やみながら、私はそのまま眠りについた。

ところが翌晩も、さらにその翌晩も、笑い声は止まなかった。しかも決まって深夜1時になると断片的に始まり、30分ほど続いてから聞こえなくなる。

こんな時間に子供が遊んでいるということがあるのだろうか。親が寝かしつけるものだと思うのだが。

数日経ち、さすがに気になった私は、アパートの管理人に相談をした。

「隣の部屋、夜中に少しうるさいんですが……」

管理人は不思議そうな顔をして言った。

「おかしいですねぇ。お隣っていうと……」

「右隣です」

「おかしいですね。そのお部屋はずっと空室ですよ」

私は驚き、背筋がぞっとした。空室のはずがない。私は確かに隣からの笑い声を聞いていたのだ。

「そうですか。私の勘違いかもしれません」

その場はそう言って引き返したが、やはり気になって、隣の部屋のドアをノックしてみる。

返事はない。

ドアノブを回してみるが、鍵がかかっているようだった。中を覗こうにも、カーテンが閉まっていて、外から室内の様子は見えない。

その晩も、再び笑い声を聞いた。

次第に私は不眠症気味になった。何度寝返りを打っても、あの無邪気な笑い声が耳にまとわりつき、眠りにつくことができなかった。

ある夜、意を決して壁越しに問いかけた。

「誰かいるのか?」

しばらく沈黙が続いた後、壁をトントンと叩くような音が返ってきた。

私は固まった。声ではない、何かが壁を叩く音だった。私が再び問いかけると、今度は明らかに、返答するかのようにリズムを変えて叩き返してくる。

私は慌てて部屋を飛び出し、管理人の元へ駆け込んだ。

管理人は困惑しながらも部屋の鍵を取り出し、私と一緒に隣の部屋へと向かった。浮浪者が住み着いていることを心配しているようだった。

ドアを開けて室内に踏み込むと、空気が淀んでいて、埃っぽい匂いがした。家具はなく、ただ薄暗い空間が広がっている。

「やっぱり誰もいませんよ……」

管理人は少しほっとしたように呟くが、私は部屋の隅に落ちている小さなぬいぐるみに目を奪われた。色褪せ、埃をかぶったぬいぐるみだったが、それが何か意味ありげに見える。

管理人にそのぬいぐるみのことを尋ねると、彼は曖昧な表情で答えた。

「あぁ、それ……。以前ここに住んでいた家族が置いていったものです」

「その家族はなぜ引っ越したんですか?」

管理人は躊躇いながら答えた。

「実は……娘さんが亡くなったんです。その後すぐに引っ越されて……」

寒気が背筋を這い上がった。

「亡くなったって、いったい何があったんです?」

「いやぁ、そういう個人情報は管理会社の方に問い合わせてくださいよ。私はただの管理人で、実は居住者の情報は話しちゃいけない決まりなんですよ」

困ったように頭をかいた。おそらく、先日のように鍵を開けて部屋を見せるというような行為もアウトだったのだろう。

その晩も、私は再び笑い声を聞いた。

精神的に追い詰められた私は、ある日隣の部屋に無断で侵入してみることにした。管理人が掃除のために管理室を空けた隙を狙い、勝手に鍵を借りた。

部屋の様子に変化はない。私は元凶と思われるぬいぐるみをつかみ、近くのゴミ置き場に捨ててしまった。

それだけでは不安が収まらず、インターネットで見つけた魔除けのお札をプリントアウトし、隣の部屋のドアに貼りつけた。

これで終わったはずだ。

だが、その夜、私が部屋に戻ると、自分のベッドの上に捨てたはずのぬいぐるみが座っていた。さらに、そのぬいぐるみからは微かな笑い声が漏れている。

恐怖に震え、私は再びぬいぐるみをつかむと、今度は遠くの川まで行って投げ捨てた。

しかし翌晩、またぬいぐるみは戻ってきてしまった。しかもその晩から笑い声は止まず、私の耳元で囁きかけるようになった。

「ねぇ、ねぇ、遊ぼうよ」

精神の限界が近づく中、ある深夜、部屋の中で明確な足音が聞こえた。息を詰めて耳を澄ますと、何かがベッドへと近づいてくる。

私は凍りついた。

薄暗い中、小さな女の子が立っていた。小学生低学年くらいだ。金縛りにあったように体が動かない。

女の子は微笑みながら自分の首に手をかけ、徐々に締めつけていく。

「ねぇ、一緒に遊ぼうよ……」

女の子の声は途切れ途切れで、歪んだ笑い声と共に響き渡る。

私は渾身の力を振り絞って体を起こした。金縛りが解け、ベッドから転がり落ちる。

そのまま後ろを見ることもなく、部屋を飛び出した。朝になるまで部屋には戻れなかった。

翌日、私はすぐに引っ越しを決めた。

「関わらずにすぐ引っ越せばよかった……」

引っ越しの日、最後に部屋を振り返ると、窓から女の子の影が手を振っているのが見えた――気がした。

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