#368 執事の長い一日

ちいさな物語

「お目覚めですか、ご主人様。」

そう言ってカーテンを開けた瞬間、私は今日もまた、この屋敷で長い一日が始まるのです。

私がこの屋敷で執事として働き始めてから、もう二十年以上が経ちます。

最初は若さに任せて何でも完璧にこなそうとしていましたが、すぐにそれがいかに無謀なことかを悟りましたよ。何せ、私が仕えるご主人様というのは、世界でも一、二を争うほど気難しい方でしたからね。

朝はまだ薄暗いうちから屋敷中を見回ります。掃除が一寸でも行き届いていない箇所があれば、それは私の責任になりますし、庭師が手を抜いていれば、それもまた私の責任になるのです。厨房で料理人が朝食の準備を怠れば……言うまでもないでしょう。

ご主人様が目を覚ますまでのこの数時間が、私にとってもっとも緊張する時間なのです。部屋の温度、湿度、光の具合まで、完璧に整えておかなければなりません。
それらをどれかひとつでも怠れば、その日はもう、穏やかに終わることはないでしょう。

そしてご主人様が朝食を召し上がる間も、私はずっと傍らに控えています。

「紅茶が薄い」「パンが固い」「卵の茹で具合が絶妙でない」朝から始まるこうした小言の数々を、私はただ黙って聞き流すしかないのです。

そうしているうちに、午後になれば、今度は書斎での仕事の手伝いです。
書類の束を整理し、重要な取引相手との手紙を代筆し、時にはご主人様に代わって直接会いに行くこともあります。

そのどれもが完璧であることが求められる仕事で、一秒たりとも気を抜くことは許されません。

「君は本当に物覚えが悪いな」「もっと気を利かせられないのか」そんな冷たい言葉を日々浴びせられるのですが、不思議なことに、私は辞めようと思ったことが一度もありませんでした。

ご主人様は、人を使うことには厳しいですが、それは決して理不尽ではないのです。なぜなら彼は、自分自身にもそれ以上に厳しいからです。

私はそれをずっと傍らで見てきました。完璧に見えるご主人様が、一人書斎でうなだれている姿を何度も目にしたのです。

ある夜、ご主人様がめずらしく酔って帰宅されたことがありました。それも、とてもひどく酔っておられたのです。私はご主人様を自室までお連れしましたが、ベッドに横になられたあと、ご主人様は不意に私を引き止め、ぽつりと呟きました。

「君は私のことを冷たい人間だと思っているだろう」

思わず言葉に詰まりました。何も言えない私に向かって、ご主人様は静かに話し始めました。

「だが私は、この屋敷の皆に対して、私自身に対してそうするのと同じように厳しくあらねばならないと思っている。この家を守り、この家を託された身として、完璧であることが私の務めだと思っているのだ。……時に、それが酷すぎるのかもしれないが」

それは初めて聞いた、ご主人様の本音でした。

その日からでしょうか、私はそれまで以上に、ご主人様のことを理解したいと思うようになったのは。

彼が常に完璧を求めるのは、この屋敷のため、この家に仕える者たちのため、そして自分自身のためだったのです。

その後、屋敷に様々な困難が訪れました。

取引相手とのいざこざ、使用人たちの揉めごと、突然の災害――。

そのたびにご主人様は毅然と対応されましたが、私はその背中が時折震えていることを知っていました。

そしてある時、ご主人様が体調を崩され、数日間、寝込まれたことがありました。ご主人様が倒れるなど、考えられなかった私にとっては大変な衝撃でした。

その間、屋敷のことは私にすべて任されましたが、正直言って、あの数日間は私の執事人生の中でも最も辛く、長い日々でした。

数日後、ご主人様はなんとか回復されましたが、その日の朝、私はまたいつものようにカーテンを開けながら言いました。

「お目覚めですか、ご主人様」

するとご主人様は、ベッドの中で静かに私を見つめ、ぽつりと言いました。

「君には苦労をかけたな」

それはご主人様が、初めて私にかけてくださった労いの言葉でした。

「苦労だなんて、とんでもございません。ご主人様がご無事で、何よりでございます」

私は咄嗟にそう答えましたが、内心は驚きと喜びでいっぱいでした。あのご主人様が、私のことを思いやってくださる日が来るとは夢にも思わなかったのですから。

それからというもの、屋敷の空気は少しだけ変わりました。ご主人様は相変わらず厳しい方ですが、時折かけてくださる短い言葉や視線の端々に、温かさを感じるようになったのです。

今日もまた、私は早朝に目を覚まし、屋敷中を見回りながら一日を始めます。

もちろん、今でも長い一日に変わりはありませんが、前とは違います。ご主人様が私に教えてくださったように、完璧さとは他者を思いやる心があってこそ、本当の意味で完成するものなのだと、そう感じながら仕事をする日々なのです。

ええ、今日もまた、とても長い一日ですよ。
ですが、私はもうその長さを苦痛とは思いません。むしろそれを、執事としての誇りと感じられるようになったのです。

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