#372 異国のコイン

ちいさな物語

朝の通勤途中、電車の座席に腰を下ろしたとき、何気なくズボンのポケットに手を突っ込んだ。指先に触れたのは、冷たく硬い金属の感触だった。取り出してみると、それは見たこともないコインだった。

大きさは百円玉ほどだが、妙にずっしりしている。片面には王冠をかぶった男の横顔、もう片面には読めない文字と、精緻に彫られた建物のような模様。どこか異国の雰囲気が漂っている。

心当たりはなかった。昨日は仕事帰りにコンビニとスーパーに寄っただけだ。どこでこんなものが紛れ込むというのか。

その日は一日中、そのコインのことが頭から離れなかった。会社のパソコンでこっそり検索しても、画像検索でも一致するものは出てこない。マイナーな観光地の土産コインか、古銭か……。

帰宅後、机の上に置いたコインを何度も眺めた。角度によっては、模様の影が微妙に揺れる気がする。金属なのに、光が液体のように動く。気味が悪いと思いつつも、引き出しにしまうことはしなかった。

翌朝、またポケットに手を突っ込むと、そのコインがあった。昨日、机に置いておいたはずなのに。
「……は?」
引き出しを確認したが、そこは空っぽだった。俺はコインを握りしめたまま出勤した。

その日から、妙なことが続いた。コインを持っている日は、駅前のベンチで不思議な異国語が耳に入る。角の自販機の横を通ると、見慣れたはずの路地が一瞬だけ知らない道に見えた。

三日目の夜、夢を見た。

暗い市場のような場所に立っていて、周囲は見たことのない服を着た人々で溢れている。隣にいる人の手元を見ると、あのコインを握っている。

屋台の男が俺の手元のコインを見て、にやりと笑い、何かを差し出そうとした瞬間、目が覚めた。枕元には、ポケットに入れたはずのコインが転がっていた。

やがて、夢だけではなく現実でも変化が起きた。会社帰りに立ち寄るコンビニの店員が、急に異国語で話しかけてきたのだ。聞き取れないはずなのに、意味が理解できた。

「今が最後の機会だ。このままじゃ戻れなくなる」――そう言われているのがわかった。俺は返事をしなかった。返事をしたら何かを認めてしまうような気がした。

翌週の金曜、終電を降りたときだった。駅の出口を出ると、街の灯りがいつもより少ないような気がした。ビルもコンビニも、灯りが消えている。まだそんなに遅くないはずだ。

遠くでは見たことがない橙色の光が揺れていた。そこまで歩くと、夢で見た市場が広がっていた。

雑多な屋台、香辛料の匂い、低く響く音楽。見知らぬ人々が笑い、叫び、取引している。俺はポケットから例のコインを取り出した。すぐに屈強な男が近づいてきて、俺の手を掴んだ。

「来たな」
日本語だった。しかし、その響きには何か別の言葉の影が混じっているようだった。ちょうど吹き替えの映画のように。

男は俺を市場の奥へ連れていった。

そこには、高い椅子に座った老人がいた。王冠をかぶった、コインと同じ横顔の男だ。老人は俺をじっと見つめ、薄く笑った。

「あんた、危なかったね」

そう言って、こちらを安心させるような仕草で小さく頷く。

すると周囲の空気が突然変わった。市場のざわめきが遠のき、代わりに低い風の音が耳を満たす。

気づくと、俺は駅前のベンチに座っていた。手の中にはコインはなく、ポケットも空だった。だが、腕には男に掴まれた赤い跡が残っていた。

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