#380 あざらしからの残暑見舞い

ちいさな物語

今年の夏はやけに暑かった。

八月の終わりになっても、蝉の声は止まず、夜になってもまとわりつくような湿気が抜けない。

僕の住むアパートの郵便受けには、町内会の回覧板や広告しか入らないのが普通だ。だけど、あの日は違った。ポストを開けると、見慣れない青い封筒がひとつだけ入っていた。

封筒には丸っこい文字で「ざんしょおみまい申し上げます」と書かれている。そして、差出人の欄には、ひらがなで「あざらし」とだけあった。

僕は思わず「なんだこれ?」とつぶやいた。

誰かのいたずらか、それとも町の子ども会か何かのイベントだろうか。とりあえず部屋に戻り、封を開けてみると、そこには手描きの葉書が入っていた。

葉書には、水色のインクで波と太陽が描かれ、中央に小さなあざらしのイラストがちょこんと座っていた。そして短いメッセージが添えられていた。

「のこりのなつも、すずしくすごしてね。あざらしより」

まったく身に覚えがない。けれど、なんだか可愛くて、その葉書を机の上に飾ることにした。

その夜、寝苦しくて何度も寝返りを打ちながら、僕は「あざらしって、誰だろう」と考えた。

翌朝、ベランダに出てみると、植木鉢の水皿の周囲に、妙な跡がついていた。それは一定のパターンで続いていて、何かが這っていった跡のようにも見える。

「まさか、まさかね」と思いながら、ちょっとだけ胸がざわついた。

会社でもその話をしたが、「面白いな、それ」とみんな笑って取り合わなかった。

でも、それからも奇妙なことが続く。

洗濯物を干していると、いつの間にかバスタオルが湿っていたり、部屋の床に水たまりができていたりする。冷蔵庫を開けると、氷の隙間に魚の形をしたグミがひとつ紛れ込んでいたりする。

そして、二通目の葉書が届いた。「まだまだあついね。ぼくは水のなかでのんびりしてるよ。」

差出人はやっぱり「あざらし」だった。

「おいおい、本当に誰だよ」と思いながらも、僕はちょっと楽しくなってきて、その葉書も机に並べた。

そんなある日のこと。

夕立の後、玄関先に小さな水の跡が続いているのを見つけた。跡は部屋の中まで続いていて、窓辺のカーテンの下で止まっていた。

おそるおそるカーテンをめくると、そこには、ふわふわの灰色の塊が……。

「……あ、あざらし?」

手のひらサイズの、小さなあざらしが、窓辺でくるんと丸まって寝ていたのだ。

信じられなくて目をこすった。でも、何度見てもそこにはあざらしがいる。呼吸をするたびに体がふわふわ動く。

「あざらし、なのか?」

すると、その小さなあざらしは、ぱちりと目を開けて、僕を見た。本物のあざらしというより、ぬいぐるみみたいな、キャラクターめいた姿をしている。

「……ざんしょおみまい、もういっかい、いいですか?」

聞き間違いかと思ったが、確かにあざらしはそう言った。口元が動いていて、人間の言葉をしゃべっている。

「う、うん……いいけど……」

あざらしはうれしそうに笑い、尾をぱたぱたと振った。

その日から、僕の部屋には毎日あざらしからの「ざんしょおみまい」が届くようになった。

窓辺に並ぶ水色の葉書、氷の上でひんやり眠るあざらし、時折くれる魚グミのおすそ分け。

夏はいつまでも終わらず、不思議な残暑見舞いが届く日々が続いた。

やがて季節が進んで、秋の風が吹き始めても、あざらしは窓辺で丸まって眠っている。

「もう、ざんしょおみまいは終わり?」と僕が聞くと、あざらしはちょっとだけ寂しそうに、「うん。そうだね。でも、また来年も、ね。送るから」と言った。

翌日、あざらしの姿は消え、急に秋めいた気候になってきた。意味はよくわからないけど、それは小さな夏の終わりの魔法だったのかもしれない。

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