#397 観覧車と物語

ちいさな物語

あれは夏の終わりだったな。辺鄙なところに小さな遊園地を見つけたんだ。

こんなところに遊園地があるなんて知らなかった。しかも夜まで営業しているなんて変わっている。

その遊園地に入ってしまったのは偶然で、導かれるように閉園間際の観覧車に乗ったんだ。

本当は街へ帰ろうと思ってたんだが、なんというか、ちょっといろいろあって、すぐに帰りたくなくてね。ゴンドラの灯りがやけに温かく見えたんだよ。

でも変なんだ。

その遊園地の独自のルールなのか知らないけれど、相席だった。ゴンドラには、先に一人の老人が座っていたんだ。老人が一人で遊園地に来ちゃいけないなんてことはないけど、ちょっと不思議な取り合わせだと思ったんだ。

その老人は、白いシャツに麦わら帽子。背筋はまっすぐなのに、目だけがどこか遠くを見ていた。

「いいかい?」
そう言って老人は、俺が腰を下ろす前に話し始めた。


「観覧車は一周でひとつの物語を閉じ込めるんだ」

俺は笑って「そうなんですか」と返した。普段なら面倒くさいことになったなとうんざりするところだが、その日は人と話をしている方が落ち着くような心境だったんだ。

老人は本気の表情でうなずいた。

「先に乗った人間が語り、後に乗った人間が話を受け取る。それがこの観覧車の古い約束さ」

ゴンドラが上昇し始めた瞬間、老人の声は不思議と澄み、窓の外の夜景よりも鮮やかに響いた。

「わしが若いころ、旅の途中で一人の女と出会った。小さな村の市場で、壊れた笛を売っていてね。壊れていて誰も買わないからと遠慮したが、わしはその笛をあえて買ったんだ」

窓の外の景色がどんどん上昇し、老人の話は進んだ。

その女と一緒に笛を修理したこと。夕暮れに二人で並んで吹いたこと。やがて女が病に倒れ、最後に思い出の笛だけが残ったこと。

俺は黙って聞いていた。老人の青春語りと言ってしまえばそれまでだが、長い年月を経た物語の重々しさが俺の言葉を奪っていた。

「笛はまだ持っている。音は出なくなってしまったが、あれを手にすると、あの夏の日がよみがえるんだ」

ゴンドラは最頂点に達し、夜空と街の光がひとつに溶ける。老人の横顔は闇と光に浮かび上がり、どこか現実離れしていた。

「一周すれば物語は終わる。聞いた者は次に渡す。そうして、この観覧車は幾千もの人生を飲み込んできた」

降下が始まった。俺は口を開いたが、声が出なかった。

やがてゴンドラは地上に戻った。扉が開くと、老人は立ち上がり、麦わら帽子を軽く上げて言った。

「ようやく手放せた。次は君の番だよ」

気がつけば、俺の手には古い木笛が握られていた。いつ渡されたのか覚えていない。

振り返ると、老人の姿はもうなかった。
だが観覧車は、静かに回り続けている。客は誰もいなかった。

――あれから何年も経った今でも、笛は机の引き出しにしまってある。手に取ると老人の声と窓越しの夜景が蘇る。あれは本当にあった出来事だったのか。今やそれすら曖昧になっている。

次は俺が語る番だというのはどういうことだろう。とにかく俺は探さなければならない。観覧車が一周する、その短い時間に誰かに渡すべき物語を。

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