#445 飢えの名前

ちいさな物語

あんたにも経験はあるんじゃないか?

夜中にふと、ラーメンが食べたくて仕方なくなるとか、やけに甘いものを欲するとか。誰にでもあるんじゃないかと思う。これはただの気まぐれみたいなものだと思うだろう。

でもな、俺の場合はちょっと違ったんだ。

最初は小さなことだった。

ある晩、どうしても「きゅうり」が食べたくなった。別に好きでもないのに、頭から離れない。仕方なくコンビニで漬物を買って食べた。

すると、おかしなことに、体が異様に軽くなったんだ。まるで何かに憑かれていたのが抜け落ちたような感覚だった。

次の日は「鶏の手羽先」だった。その次は「りんご」。そして「レバー」。

どれも普段なら特に欲しないものばかりだ。しかも食べた後は、必ず同じ感覚に襲われる。安堵、そして快感……。

最初は病気かと思ったよ。食欲をつかさどる脳の一部に何か起こってるんじゃないかって。医者にも相談したが、「いや、誰にでもよくあることでしょう」と笑われた。念の為と行った頭部MRIと血液検査でも特に異常はなかったんだ。

でもな、あの夜を境に確信したんだ。

ある日、急に「豚の心臓が食べたい」と思ったんだよ。今まで意識すらしてなかった食材だ。普通じゃないだろ?

それがどうしても我慢できなくて、肉屋に駆け込んで頼んだ。でも「うちは豚ハツは置いてません」と申し訳なさそうに言われただけだった。

仕方なく焼き鳥屋で「ハツ」を注文した。食べた瞬間、心臓が脈打つような感覚に襲われた。胸の奥で、何かがもうひとつ生きている。

ぞっとしたよ。

それから、欲望はますますおかしくなった。

「魚の目玉が食べたい」

「蜂の子を食べたい」

「豚の血を飲みたい」

そんな不気味な衝動が、唐突に襲ってくる。やはり今まで食べたことがない食べ物ばかりだ。でも食べないと眠れない。食べると安堵する。

あんた、これがただの食欲だと思うか?

俺はある時、古い民俗学の本を読んだんだ。そこには「定期的に奇妙な食物を欲する者は、何かに寄生されている」と書かれていたんだ。

つまり俺は、誰かの「食欲」そのものになっているんじゃないかと。

ある夜、夢を見た。

暗闇の中に、巨大な口がある。俺が何か食べるたび、その口が「うまい、うまい」と言って笑うんだよ。そして口はさらに大きくなっていく。

俺が食いたいんじゃない。食わせられてるんだ。欲望の主は俺じゃなくて、こいつだ。

そう考えた瞬間、全身が冷たくなった。もしこの化け物がとんでもないもの――法律に触れるようなものを欲したら俺は……。

それからは必死にその食欲に逆らってみた。

きゅうりを食べたくなっても我慢した。肉を欲しても耐えた。

だが結果はひどいもんだった。高熱が出て、幻覚に苛まれ、心臓はバクバクいって死ぬかと思った。

結局、負けたよ。涙を流しながらきゅうりをかじった瞬間、体が嘘みたいに楽になった――もう抗えないんだ。

あんたも今夜、ふと「どうしてもこれが食べたい」と思ったら気をつけな。

もしかするとそれは――あんたの食欲じゃないかもしれない。アレがまだ小さなうちに対処した方がいい。

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