#457 傘に落ちるもの

ちいさな物語

あれは二年前の秋頃だったと思う。

夜勤明けで疲れていた俺は、しとしとと降る雨の中を、傘を差して歩いて帰っていたんだ。

最初は、雨音に紛れて気のせいだと思っていたが、上から「ボタッ」という重たい音がした気がした。

雨の粒が落ちる音とは違う。柔らかく、濡れたものが傘に叩きつけられるような、ちょっと嫌な響きだった。

「気のせいだろう」と思って歩き続けた。だがすぐにまた「ボタボタッ」と続けざまに音がした。振動が傘越しに伝わる。雨粒にしては重すぎる。

妙なのは、傘を横に傾けても何も滑り落ちてこないことだった。普通、傘の上に何かが乗っていたら滑り落ちてくるはずなのに、何も落ちてこない。

それでも確かに音は続く。なんとなく肉片のようなものがぐちゃっと叩きつけられるような音――そう思ったら、生理的に受け入れがたい不快感が、背筋を這い上がってきた。
 
傘の上を確認しようと、歩きながら傘の内側から触れてみたが、そこには特別何かが乗っているような感触はない。

それなのに、あの不快な音とともに傘はどんどん重くなっていく。傘を持っているのがつらいくらいに手首が重みを感じ始める。柄を持つ手が痺れてきた。まるで見えない何かが傘の上に積もっているようだった。

「何だ……?」声に出してみても、もちろん何も変わらない。深夜のことで周りには誰もいない。その日は霧雨で雨音も小さなものだ。その中であの「ボタボタッ」という音だけが聞こえてくる。

心臓が早鐘を打つ。逃げたいのに足が止まらない。何が起こっているのか混乱し始める。「ボタッ、ボタボタッ」まるで誰かが上から肉を投げつけているかのようだ。

そして、決定的におかしなことが起きた。急に傘の布地が沈み込み、今にも破れそうに見えた。実際には何も見えない。それでも重量だけは確実に増していた。

音の激しさが増した。「もうダメだ……」そう思ったときだった。

俺はそのときちょうど踏切を渡っていたが、線路を渡り切った瞬間、音がぴたりと止んだのだ。重さもすっと消え、傘は何事もなかったかのように軽くなった。

あまりの落差に、足が止まった。振り返っても誰もいない。ただ、雨が静かに降り続けるばかり。

それから数日後、職場の同僚からこんな風に話しかけられた。

「あの踏切さ、人身事故が多いんだよ。それで、夜になると変なことが起こるって噂だぜ。あそこ、通るだろ? なんかなかったか?」

俺は言えなかった。「変なこと」が何かを。言葉にしてしまえば、あの不快な音が現実に戻ってきそうで、喉が塞がったままだった。

結局、あの傘の重さは何だったのか。俺にはわからない。ただ――今でも雨の日にあの踏切を渡るとき、自然と息を止め、足早に通り過ぎてしまう。

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