あれが始まったのは、去年の秋頃だったと思う。
最初に気づいたのはうちの近所の商店街だった。いつも歩いているはずの通りが、ある日、一本増えていたんだ。
「え? こんな路地あったっけ?」って感じで。でも、人間というのは不思議なもので、知らない道を見つけると好奇心が勝ってしまうものだ。それで、ふらっと入ってみた。
狭い路地の両脇には古びた木造の建物が並んでいて、軒先に見たこともない店名の看板が下がっていた。「鶴ノ湯」「珈琲みずおち」「夜半堂書房」――どれも妙に古めかしい。
しかし、さらに奇妙だったのは、道の奥に進むにつれて、やけに静かになっていったことだった。車の音も、人の声も、何も聞こえない。まるでこの通りだけ外から切り離されたみたいだった。
さすがに怖くなって引き返した。
でも、振り返ったとき、後ろの景色に少し違和感を覚えた。路地の入口に見覚えのない「八百屋の看板」が現れていたんだ。そのときは気のせいだと思った。けど――
数日後、その「裏路地」がニュースになった。
『○○市で新たな通りが出現? 地図に存在せず』
『同様の現象、各地で確認』
やたらとオカルトじみた見出しがネットを賑わせた。最初は「地盤変動」だとか「測量ミス」なんて言われてたけど、じきに政府も介入してきて、事態は一気に現実味を帯びてきた。
感染、という言葉が出始めたのは、その翌週だ。
『町感染』。
「建物群が有機的に変質し、都市構造が増殖する」――なんて説明がついたが、誰も意味がわかっていなかった。実際、最初は道が増えるだけなんだ。新しい通り、新しい路地、新しいビル。まるで町が、自分で新陳代謝しているみたいに。
けど問題は、その偽物の道を歩いた人たちが戻らないことだった。
一度奥まで入ると、抜け出せない。路地の奥地へ入っていった人間はみんな行方不明になる。ある者はGPS信号が忽然と消え、ある者は途中で通話が途絶え、残されたのは断片的な痕跡だけ。
動画を撮影しながら行方不明になったとある動画配信者のライブ映像には、見知らぬ建物や、人影のようなものが映っていた。その人影は、静止していたんだ。動かず、ただ立っている。まるで町の風景として再現されたみたいに。
「町が人を食ってる」
そう言ったのは、調査に入って戻ってきた唯一の学者だった。白髪の老人で、名前はたしか――黒瀬教授。
教授の話によると、町感染は「地形のウイルス」みたいなものらしい。それは町の構造に寄生し、道や建物を複製して広がる。でも、ウイルスには宿主が必要だ。町が生き延びるには、人間が必要。
「この現象は共依存だ。町は人を喰らうが、人もまた町に住まなければ生きられない」
教授はそう言って、まるで何かに怯えるように目を泳がせた。
僕の住む市でも、感染が確認されたのはそれからすぐだった。最初に消えたのは、配達員の青年。
同僚の話によると、彼は「最近見つけた近道があるんです」と笑いながら細い路地に入っていった。数時間後、彼の自転車だけが路地の入口で見つかった。
そして、感染は広がり続けた。行政は怪しい路地の封鎖を始めたが、意味がなかった。道は夜のうちにどんどん増える。朝には新しい角ができ、ビルの隙間に知らない通路が伸びている。ある朝、家の窓を開けたら、隣の家との間に知らない路地が通っていたことがあった。
ある夜、僕はついにそれを見た。
外出禁止令が出ていたのに、どうしても気になって出てしまったんだ。近所の通りが、さっきから形を変えている気がした。歩いてみると、確かに違う。電柱の位置、看板、建物――全部が少しずつズレていた。
奥の方に、人影が見えた。最初は誰か迷った人が取り残されていると思った。でも、近づいても動かない。
それは、壁と一体化していた。腕も、足も、顔も。まるで溶けて建物の表面に吸い込まれたみたいに。皮膚の下にはレンガの模様が透けていた。あれは風景としての人間だろうか、それとも町に食われた人間の成れの果てだろうか。
息を呑んだ瞬間、後ろの道が音を立てて動いた。まるで地面が生き物みたいに蠢いて、別の道と繋がった。
逃げようと振り返ったが、来た道はもうなかった。
どうやって戻ったかは覚えていない。必死に走り、気づいたら家にいた。服は埃まみれで、手には黒い粉がついていた。町の欠片だろうか。
ニュースでは、その夜のことを「局地的な大幅変動」と呼んでいた。翌朝も家の前の通りに路地が一本増えていた。
地図にも載っていない。でも、見たことがある看板がかかっている。「珈琲みずおち」――あの、初めて知らない路地に入ってみたときに見た看板だ。
今、町の感染率は全国で48%。政府は町ワクチンを開発し、十年後までに「自己修復」を可能にするとか言っているけど、誰も信じちゃいない。それに十年後までに、いったいどれほどの人が町に食われてしまうのだろうか。
僕は毎朝、家を出るたびに道を慎重に確認している。古い紙の地図を見ながら、絶対に「いつもの道」をたどるように。昨日と同じ道が今日もあるか。曲がり角の先に、知らない路地が増えていないか。
この町の感染はしばらく止められず、どこにも逃げ場はない。町がある限り、そこに僕らの生活があるんだから。
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