#476 悪魔の描かれた部屋の絵

ちいさな物語

あれは、今でもはっきり思い出せる。静かな雨の日だった。

仕事帰り、駅までの近道を探して裏通りに入ったら、古い木造の建物があった。「八重画廊」と小さな看板に書かれていた。窓越しに見えた明かりに誘われて、なんとなく中へ入ったんだ。

ベルの音が鳴った。中は狭いけど、小綺麗だった。壁に並んだ絵はどれも古風で、どこか寂しげな雰囲気をしていた。

その中で、ひとつだけ異様な絵があった。

古びた灰色の額縁。中には、古い洋館の一室が描かれていた。奥行きのある部屋、窓から差す光。そして壁には、さらに小さな絵が掛けられている。

絵の中の絵――その中にも、また同じ部屋。その奥にも、さらに同じ部屋が。まるで無限に続くようだった。

「すごい……」思わず呟いた。

近づいてよく見ると、筆致は驚くほど精密だ。手前の部屋から奥の部屋まで、光の角度も家具の位置も微妙に違っている。

絵の奥に描かれた小さな部屋のさらに奥――そこに、黒い何かが立っていた。

最初は、家具の影かと思った。でも、どう見ても人の形をしている。いや、人というより……角のようなものが頭から突き出ていた。

「気づきましたか」

背後から声がして、心臓が跳ねた。振り返ると、画廊の店主らしい男が立っていた。黒いスーツに、深い皺。どこか影の薄い人だった。

「それは、『無限室』と呼ばれる作品です」

「……無限室?」

「ええ。絵の中に描かれた部屋が、際限なく続いていくんです。見る人の目によって、奥の構造が変わる」

「変わる?」

「ええ。見つめ続けるほど、奥が広がる。あなたが奥を知りたいと思うほど、絵は深くなる――と、言われています」

気味が悪いが、妙に惹かれた。絵の奥にある黒い影の正体を確かめたい――そんな衝動が湧いてきた。

「これは……販売してるんですか?」

「ええ。ただし、一度買ったら返品はできません。それでも?」

男の目が笑っていなかった。それでも俺は頷いた。どうかしていたのかもしれない。

その夜、絵を部屋に飾った。部屋の明かりの下で見ると、画廊で見たよりも奥行きがあるように見える。そして、昼間は見えなかったものが見えた。

奥の部屋の隅に、小さな影がもうひとつ増えていた。それは、最初に見た角のある影よりも手前の部屋に立っている。

息が詰まった。まるで、近づいてきているようだった。

朝、出勤前に見たら、影はさらに手前に移動していた。もう、三番目の部屋にいる。それどころか、角の形もはっきり見える。

左右にねじれた黒い角。人の形をしているが、顔が異様に長い。

その晩、寝る前にもう一度絵を見た。気づけば、部屋の光がほんのり赤くなっていた。誰かが中で灯りを変えたみたいに。

「……さすがに気持ちが悪いな」

壁から外そうとしたが、妙に重くて外れない。額縁の裏に手を入れても、壁に吸い付いたように動かない。仕方なく絵全体を覆うように布を被せた。

そしてそのまま、眠れぬ夜を過ごした。

数日後、ふと布をめくってみると、絵の中が変わっていた。奥の部屋にあったはずの小さな絵が、消えている。その代わりに、手前の部屋――つまり、俺が最初に見ていた位置に、絵の中の窓が開いていた。

そしてその窓の外に、暗い世界が広がっていた。見た瞬間、背筋が凍った。その暗闇の中から、何かがこちらを覗いている。赤い光が二つ、ぼんやりと浮かんでいた。

目だ。

黒い角を持つそれが、絵の中からこちらを見ていた。まるで、俺の部屋の位置を正確に知っているかのように。

「……っ!」

慌てて布をかけた。見なければ大丈夫。そう言い聞かせて寝床に入った。

でも、夜中――。

「……見ているぞ」

低い声が聞こえた。男とも女ともつかない、ざらついた声。目を開けると、布の下から光が漏れていた。真っ赤な光。俺は布を剥がした。

絵の中の部屋の手前――そこにそれがいた。

もう完全にこちらの部屋のすぐ向こう側だ。額縁の中で、笑っていた。黒い顔、ねじれた角。鋭い歯が、油絵の筆致の中で光っている。

俺は逃げるように後ろへ下がった。だが、目が離せなかった。

それが口を開いた。

「ようやくこの時が来た」

声は、絵の中からなのに、耳のすぐそばで聞こえた。

「さぁ……描け」

その言葉を最後に、視界が暗転した。

気づいたら朝だった。

部屋は静かで、絵は元の場所に掛かっていた。ただし――中の絵は元の状態に戻っていた。黒い影も角のある男も、消えている。

俺は無意識にノートを開き、昨日見た絵の中の男を描き始めた。何枚も何枚も。

それから画材屋に行き、道具をそろえて、俺の部屋の絵を描き始めた。何枚もやり直し、やがて描き上げる。

それから壁に掛けられた絵の中に、また部屋を描く。

――描かなければならない。なぜだか、そう思った。

仕事にも行かなくなった。

たぶん、前の画家も同じだったんだろう。無限室を描いたあの画家も、こうして筆を取ったに違いない。

俺は黙って筆を走らせた。描けば描くほど、奥行きが生まれていく。部屋の奥の奥のさらに奥に、あの角のある影が笑っている。

この絵が完成したとき、きっと――俺も最奥の絵に取り込まれ、餌食にされる。

そうして、また誰かがこの絵を買う。また、次の部屋が描かれる。

この悪魔は、次々に新しく描かれた絵の中を移動していく。

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