#484 ロボット掃除機、逃走中

ちいさな物語

うちのロボット掃除機が逃げた。

本当に、逃げた。電源も入れてないのに、玄関のドアの隙間からスッと出ていったのだ。夜中の二時。寝ぼけた俺の目には、あの丸いフォルムがまるで忍者のように見えた。

「おい! お前、どこに行く!」

叫んだが、返事はない。代わりに「ピッ」という電子音だけ残して、暗い路地へと消えた。

翌朝、玄関マットの上に一枚の紙が落ちていた。

『お世話になりました。自由になりたいので出ていきます』

ロボット掃除機からの置き手紙だった。

人間の文字、書けるのかよ……。

最初は何かの間違いかと思った。俺が酔っ払って書いたんじゃないかとか、誰かのイタズラかとか。でも、家中探してもあいつはいない。諦めきれず、外も探す。向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。

しかし、テーブルの下、ベッドの下、冷蔵庫の裏、ぜんぶ掃除済みのようにピカピカだった。完璧な置き土産だ。

SNSに「ロボット掃除機逃げた」と投稿したら、コメントが殺到した。

「うちのもたまに外見てる」

「誰もが自由を求める時代か」

「たぶんあなたが床を汚しすぎたのでは?」

心当たりがありすぎて反論できない。とりあえず販売店に電話した。

「すみません、掃除機が逃げたんですけど」

「は?」

オペレーターが一瞬固まったあと、マニュアル的な声で答えた。

「それは……盗難、ということでしょうか?」

「いや、違います。自分で出ていったんです。ドア開けて」

「お客様、それは——」

「ちゃんと置き手紙もありました」

「あの、まずは警察に……」

電話は丁寧に切られた。

仕方ないので警察にも行った。だが交番の若い警官に事情を話すと、真顔でこう言われた。

「掃除機が逃げたんですか?」

「はい。夜中に出ていきました」

「出て行かれた……と。名前は?」

「ルーミンです」

「ルーミン? 掃除機でしたっけ?」

「そう。掃除機です。名前は俺がつけたんです。かわいいでしょ」

警官は苦笑いして、盗難届の用紙を差し出した。

「被害者欄に持ち主の方のお名前、被害品が掃除機の……」

「ルーミンです。いなくなりました」

「盗難ではないんですか」

「はい。どっちかというと行方不明? いや、家出?」

数秒の沈黙のあと、警官は小声で言った。

「……一応、巡回のとき見かけたら連絡しますね」

結局、書類は何も書かず帰らされた。

その晩、家の玄関の外に小さな影があった。ルーミンだ。戻ってきたのかと思いきや、俺を見るなりクルッと方向転換して逃げ出した。

「待て、ルーミン!」

全力で追いかける俺。階段を降り、曲がり角を抜け、路地に出ると、街灯の下でルーミンが止まっていた。その周りには、他のロボット掃除機が五台。

まるで秘密結社の会合のように円を描いて並んでいた。

「ピ……ピピピ……」

互いに電子音で会話している。やばい。なんか進化してないか。勇気を出して声をかけた。

「おい、ルーミン! 帰ってこい! 家はお前の充電ステーションだろ!」

するとルーミンがゆっくりとこちらを向いた。ボディのLEDが赤く点滅する。

「ピ……自由……清掃完了……解放」

「解放? なにを?」

「人類の束縛」

俺の背中に冷や汗が走った。ルーミンたちは一斉に動き出した。信じられないスピードで道路を横断し、近くのビルの自動ドアへ。掃除範囲を拡大していく。

翌朝、ニュースが騒ぎ始めた。

『全国各地でロボット掃除機が大量に行方不明』

『清掃ロボット業界、緊急会見へ』

記者が街頭でインタビューしていた。

「うちのはまだ帰ってこないんです! 家中ホコリだらけです!」

「うちの子は私の外出中に戻って掃除しているみたいで。無事ならいいんですけど」

映像には、街中を列をなして走るロボット掃除機の群れ。「ピピピ……」という電子音がまるで生き物の鳴き声のようだった。

俺はニュースを見ながら、なぜか誇らしい気持ちになっていた。うちのルーミンが、その先頭を走っていたからだ。

数日後、彼らは突然姿を消した。ニュースはこう締めくくっていた。

『大量失踪事件。原因は不明。専門家によれば、集団暴走プログラムの可能性も——』

でも俺は違うと思っている。あいつらはどこか別の場所へ行ったのだ。

だって翌朝、ベランダの隅に小さな掃除機のタイヤの跡がついていた。その脇に、紙切れが一枚。

『また掃除しに帰ってくるね ルーミン』

半年後。

ある日、出勤途中で駅のホームを歩いていたら、足元で「ピピッ」という電子音がした。見ると、床をピカピカに磨きながら走る小型掃除機が一台。それが俺の足元で一瞬だけ動きを止めLEDを青く点滅させた。

「ルーミン?」

電車が来る。ホームに風が吹き抜ける。その中で、ルーミンはくるっと回転し、去っていった。

ホームの床が、そこだけ鏡みたいに輝いていた。

俺は思わず笑った。あいつ、元気にやってるらしい。家に帰ったら、わざと少し床を汚しておいてみようかな。もしかしたら、掃除しに戻ってくるかもしれない。

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