うちのロボット掃除機が逃げた。
本当に、逃げた。電源も入れてないのに、玄関のドアの隙間からスッと出ていったのだ。夜中の二時。寝ぼけた俺の目には、あの丸いフォルムがまるで忍者のように見えた。
「おい! お前、どこに行く!」
叫んだが、返事はない。代わりに「ピッ」という電子音だけ残して、暗い路地へと消えた。
翌朝、玄関マットの上に一枚の紙が落ちていた。
『お世話になりました。自由になりたいので出ていきます』
ロボット掃除機からの置き手紙だった。
人間の文字、書けるのかよ……。
最初は何かの間違いかと思った。俺が酔っ払って書いたんじゃないかとか、誰かのイタズラかとか。でも、家中探してもあいつはいない。諦めきれず、外も探す。向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。
しかし、テーブルの下、ベッドの下、冷蔵庫の裏、ぜんぶ掃除済みのようにピカピカだった。完璧な置き土産だ。
SNSに「ロボット掃除機逃げた」と投稿したら、コメントが殺到した。
「うちのもたまに外見てる」
「誰もが自由を求める時代か」
「たぶんあなたが床を汚しすぎたのでは?」
心当たりがありすぎて反論できない。とりあえず販売店に電話した。
「すみません、掃除機が逃げたんですけど」
「は?」
オペレーターが一瞬固まったあと、マニュアル的な声で答えた。
「それは……盗難、ということでしょうか?」
「いや、違います。自分で出ていったんです。ドア開けて」
「お客様、それは——」
「ちゃんと置き手紙もありました」
「あの、まずは警察に……」
電話は丁寧に切られた。
仕方ないので警察にも行った。だが交番の若い警官に事情を話すと、真顔でこう言われた。
「掃除機が逃げたんですか?」
「はい。夜中に出ていきました」
「出て行かれた……と。名前は?」
「ルーミンです」
「ルーミン? 掃除機でしたっけ?」
「そう。掃除機です。名前は俺がつけたんです。かわいいでしょ」
警官は苦笑いして、盗難届の用紙を差し出した。
「被害者欄に持ち主の方のお名前、被害品が掃除機の……」
「ルーミンです。いなくなりました」
「盗難ではないんですか」
「はい。どっちかというと行方不明? いや、家出?」
数秒の沈黙のあと、警官は小声で言った。
「……一応、巡回のとき見かけたら連絡しますね」
結局、書類は何も書かず帰らされた。
その晩、家の玄関の外に小さな影があった。ルーミンだ。戻ってきたのかと思いきや、俺を見るなりクルッと方向転換して逃げ出した。
「待て、ルーミン!」
全力で追いかける俺。階段を降り、曲がり角を抜け、路地に出ると、街灯の下でルーミンが止まっていた。その周りには、他のロボット掃除機が五台。
まるで秘密結社の会合のように円を描いて並んでいた。
「ピ……ピピピ……」
互いに電子音で会話している。やばい。なんか進化してないか。勇気を出して声をかけた。
「おい、ルーミン! 帰ってこい! 家はお前の充電ステーションだろ!」
するとルーミンがゆっくりとこちらを向いた。ボディのLEDが赤く点滅する。
「ピ……自由……清掃完了……解放」
「解放? なにを?」
「人類の束縛」
俺の背中に冷や汗が走った。ルーミンたちは一斉に動き出した。信じられないスピードで道路を横断し、近くのビルの自動ドアへ。掃除範囲を拡大していく。
翌朝、ニュースが騒ぎ始めた。
『全国各地でロボット掃除機が大量に行方不明』
『清掃ロボット業界、緊急会見へ』
記者が街頭でインタビューしていた。
「うちのはまだ帰ってこないんです! 家中ホコリだらけです!」
「うちの子は私の外出中に戻って掃除しているみたいで。無事ならいいんですけど」
映像には、街中を列をなして走るロボット掃除機の群れ。「ピピピ……」という電子音がまるで生き物の鳴き声のようだった。
俺はニュースを見ながら、なぜか誇らしい気持ちになっていた。うちのルーミンが、その先頭を走っていたからだ。
数日後、彼らは突然姿を消した。ニュースはこう締めくくっていた。
『大量失踪事件。原因は不明。専門家によれば、集団暴走プログラムの可能性も——』
でも俺は違うと思っている。あいつらはどこか別の場所へ行ったのだ。
だって翌朝、ベランダの隅に小さな掃除機のタイヤの跡がついていた。その脇に、紙切れが一枚。
『また掃除しに帰ってくるね ルーミン』
半年後。
ある日、出勤途中で駅のホームを歩いていたら、足元で「ピピッ」という電子音がした。見ると、床をピカピカに磨きながら走る小型掃除機が一台。それが俺の足元で一瞬だけ動きを止めLEDを青く点滅させた。
「ルーミン?」
電車が来る。ホームに風が吹き抜ける。その中で、ルーミンはくるっと回転し、去っていった。
ホームの床が、そこだけ鏡みたいに輝いていた。
俺は思わず笑った。あいつ、元気にやってるらしい。家に帰ったら、わざと少し床を汚しておいてみようかな。もしかしたら、掃除しに戻ってくるかもしれない。
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