あのノートのこと、話したっけ。あれは、三年前の秋のことだった。
仕事帰りにたまに寄っていた古い喫茶店があってね。「カフェ・コトリ」って名前だったんだけど、看板の文字はかすれて、扉のベルも半分壊れてるような、こういっちゃなんだけど、うらびれたようなお店だった。
でも、なぜかあったかい雰囲気でさ。マスターが無口で、コーヒーの香ばしい香りがとても落ち着く店だったな。
その店の隅の席に、一冊のノートが置かれてたんだ。観光地にあるみたいな「ご自由に一言どうぞ」ってやつ。表紙が擦り切れてて、だいぶ角も傷んでいた。
気まぐれで開いたら、こう書かれてた。
「今日飲んだ『本日のブレンド』、ちょっと酸っぱかったけど悪くなかった。」
その一行だけ。日付も名前もなし。ページをめくっても、それしか書かれていなかった。文字の様子から比較的最近書かれたもののような印象だ。
マスターがその日その日に独自にブレンドして淹れてくれる『本日のブレンド』を定期的に飲んでいるような文章だ。僕はなんとなく同志を見つけたような気持ちになってノートに文字を書いた。
「あなたのコメントを見て書きたくなりました。今日飲んだ『本日のブレンド』はナッツのようなコクがあっておいしかったですよ」
そうしてページを閉じて、ノートを元あった場所に戻した。――それが交換日記の始まりだった。
一週間後、またその店に寄った。ノートを開くと、前の僕の書き込みの下に新しい文字があった。
「コクのあるコーヒーもおいしいですよね。私は甘いものも好きです。チーズケーキ、おすすめですよ。」
ページを見ながら思わず顔がほころぶ。まるで見えない誰かと話してるみたいだった。さっそくチーズケーキを注文してみる。
それから何度か通ううちに、ノートの中で会話をするようになった。
「今日は仕事で疲れました。ここだけが落ち着く。」
「わかります。私もこの店に来ると、世界が静かになったような気がします。」
まるで、顔も知らない相手と小さな手紙をやりとりするみたいに。
仕事も年齢も性別も何もわからない相手とノートを介して話すなんて初めての経験だ。
変なことに気づいたのは、二ヶ月くらい経ってからだった。
ノートを見ても、僕とその人以外、誰も書きこんでいない。
マスターに聞いたこともある。
「あのノート、他の人は見ないんですか?」
マスターはカップを拭きながら答えた。
「ノート? ああ、あれか。誰も見ないよ」
誰も? マスターが気づいてないだけか? でも、そのとき確かに、僕の背筋が少しだけ冷たくなった。
それでもやめられなかった。毎週、僕はノートを開いて、見えない相手と話をした。
「秋ですね。街路樹がきれいでした。」
「冬は苦手です。でも、この店のブレンドは冬がいちばんおいしく感じます。」
「あなたはどんな仕事をしているんですか?」
「それは秘密。でも、きちんとコーヒーを飲む時間を作れるようなお仕事です。」
そんな他愛のないやりとり。だけど、その文字を見るたび、胸の奥が温かくなった。
ある日、ノートに思い切って書いてみた。
「いつか直接お会いできたらいいですね。」
次に店へ行ったとき、返事があった。
「私もそう思っていました。でも、きっと会えないと思います。」
「なぜ?」と書こうとして、やめた。彼女(そう、たぶん女性だと思っていた)はそれを望んでいない。
それからもノートは続いた。
一年、二年。仕事で落ち込んだ日、恋人に振られた夜、いつもそのノートに書き込んだ。その人は、いつもやさしい言葉をくれる。
「泣きたいときは、ここでコーヒーを飲めばいいですよ。」
「泣いてもいいですよ。コーヒーは塩味にも合いますから。」
そんな言葉に、何度も救われた。
三年目の早春のある日、いつものように店に行くと、店内がやけにすっきりとしていた。調度品が撤去されて、テーブルも少なくなっている。
「今日で閉店なんです。」とマスターが言った。
「えっ、急にですか?」
「ちょっと身内に不幸がありましてね。家がバタバタしてしまって……閉めざるを得ない状況です」
マスター自身もつらそうに見えた。
「それはまた、急ですね。それで、あの、ノートはどこに……」
マスターは首をかしげた。
「ノート? 何のですか?」
説明をしたが、マスターは「そんなのあったかな」と、始終首を傾げるばかりだった。冗談を言ってるようには見えない。
僕はそのまま店を出て、外でしばらく立ち尽くした。風が少し冷たかった。
夕暮れの街が急によそよそしくなったように感じた。
それから一週間後、家のポストに封筒が届いた。宛名も差出人もない。中には、あのノートの一ページがちぎられて入っていた。この罫線、手触りは間違えようもない。
そこには、見覚えのある文字でこう書かれていた。
「あなたと過ごした時間はとても楽しかった。さようなら。どうか、いい春を迎えてください。」
僕はページを胸に当てて、目を閉じた。コーヒーの香りが、また少しだけ戻ってきた気がした。



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