#491 喫茶店のノート

ちいさな物語

あのノートのこと、話したっけ。あれは、三年前の秋のことだった。

仕事帰りにたまに寄っていた古い喫茶店があってね。「カフェ・コトリ」って名前だったんだけど、看板の文字はかすれて、扉のベルも半分壊れてるような、こういっちゃなんだけど、うらびれたようなお店だった。

でも、なぜかあったかい雰囲気でさ。マスターが無口で、コーヒーの香ばしい香りがとても落ち着く店だったな。

その店の隅の席に、一冊のノートが置かれてたんだ。観光地にあるみたいな「ご自由に一言どうぞ」ってやつ。表紙が擦り切れてて、だいぶ角も傷んでいた。

気まぐれで開いたら、こう書かれてた。

「今日飲んだ『本日のブレンド』、ちょっと酸っぱかったけど悪くなかった。」

その一行だけ。日付も名前もなし。ページをめくっても、それしか書かれていなかった。文字の様子から比較的最近書かれたもののような印象だ。

マスターがその日その日に独自にブレンドして淹れてくれる『本日のブレンド』を定期的に飲んでいるような文章だ。僕はなんとなく同志を見つけたような気持ちになってノートに文字を書いた。

「あなたのコメントを見て書きたくなりました。今日飲んだ『本日のブレンド』はナッツのようなコクがあっておいしかったですよ」

そうしてページを閉じて、ノートを元あった場所に戻した。――それが交換日記の始まりだった。

一週間後、またその店に寄った。ノートを開くと、前の僕の書き込みの下に新しい文字があった。

「コクのあるコーヒーもおいしいですよね。私は甘いものも好きです。チーズケーキ、おすすめですよ。」

ページを見ながら思わず顔がほころぶ。まるで見えない誰かと話してるみたいだった。さっそくチーズケーキを注文してみる。

それから何度か通ううちに、ノートの中で会話をするようになった。

「今日は仕事で疲れました。ここだけが落ち着く。」

「わかります。私もこの店に来ると、世界が静かになったような気がします。」

まるで、顔も知らない相手と小さな手紙をやりとりするみたいに。

仕事も年齢も性別も何もわからない相手とノートを介して話すなんて初めての経験だ。

変なことに気づいたのは、二ヶ月くらい経ってからだった。

ノートを見ても、僕とその人以外、誰も書きこんでいない。

マスターに聞いたこともある。

「あのノート、他の人は見ないんですか?」

マスターはカップを拭きながら答えた。

「ノート? ああ、あれか。誰も見ないよ」

誰も? マスターが気づいてないだけか? でも、そのとき確かに、僕の背筋が少しだけ冷たくなった。

それでもやめられなかった。毎週、僕はノートを開いて、見えない相手と話をした。

「秋ですね。街路樹がきれいでした。」

「冬は苦手です。でも、この店のブレンドは冬がいちばんおいしく感じます。」

「あなたはどんな仕事をしているんですか?」

「それは秘密。でも、きちんとコーヒーを飲む時間を作れるようなお仕事です。」

そんな他愛のないやりとり。だけど、その文字を見るたび、胸の奥が温かくなった。

ある日、ノートに思い切って書いてみた。

「いつか直接お会いできたらいいですね。」

次に店へ行ったとき、返事があった。

「私もそう思っていました。でも、きっと会えないと思います。」

「なぜ?」と書こうとして、やめた。彼女(そう、たぶん女性だと思っていた)はそれを望んでいない。

それからもノートは続いた。

一年、二年。仕事で落ち込んだ日、恋人に振られた夜、いつもそのノートに書き込んだ。その人は、いつもやさしい言葉をくれる。

「泣きたいときは、ここでコーヒーを飲めばいいですよ。」

「泣いてもいいですよ。コーヒーは塩味にも合いますから。」

そんな言葉に、何度も救われた。

三年目の早春のある日、いつものように店に行くと、店内がやけにすっきりとしていた。調度品が撤去されて、テーブルも少なくなっている。

「今日で閉店なんです。」とマスターが言った。

「えっ、急にですか?」

「ちょっと身内に不幸がありましてね。家がバタバタしてしまって……閉めざるを得ない状況です」

マスター自身もつらそうに見えた。

「それはまた、急ですね。それで、あの、ノートはどこに……」

マスターは首をかしげた。

「ノート? 何のですか?」

説明をしたが、マスターは「そんなのあったかな」と、始終首を傾げるばかりだった。冗談を言ってるようには見えない。

僕はそのまま店を出て、外でしばらく立ち尽くした。風が少し冷たかった。

夕暮れの街が急によそよそしくなったように感じた。

それから一週間後、家のポストに封筒が届いた。宛名も差出人もない。中には、あのノートの一ページがちぎられて入っていた。この罫線、手触りは間違えようもない。

そこには、見覚えのある文字でこう書かれていた。

「あなたと過ごした時間はとても楽しかった。さようなら。どうか、いい春を迎えてください。」

僕はページを胸に当てて、目を閉じた。コーヒーの香りが、また少しだけ戻ってきた気がした。

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