うちの近くの通りに、一本だけ妙な街路樹がある。
並木道の中で、そこだけ異様に草が生い茂っていた。夏でも冬でも、いつもあの一角だけ、濃い緑色をしている。
最初に気づいたのは、去年の秋だった。通勤の帰り道、街灯の下で足元の草がふっと動いた。風なんて吹いていなかったのに。
猫か何かが潜んでいるのかと思った。でも耳を澄ましても音はしない。虫の声も止まっていた。ただ、草だけがゆっくりと、左右に揺れていた。
気味が悪くなって、足早に通り過ぎた。それ以来、あの木の前を通ると、どうしても心がざわつく。
一見、なんの変哲もない通りだ。古い住宅街、街灯がまばらに並び、夜になると人通りがほとんどなくなる。だが、あの街路樹の前だけは、空気が重い。通り過ぎるとき、背中のあたりで何かが見ている気がする。
そのうち、妙なことに気づいた。
あの茂みのあたりに、物がよく落ちているのだ。最初はハンカチ。次は片方だけの靴。折りたたみ傘、イヤホン、子どもの手袋。
最初は誰かが落としたのだろうと思っていた。だが、ある夜を境に、それがそうではないとわかった。
その日は残業で帰りが遅くなった。
通りを歩いていると、前の方で何かが動いた。人影のようなものが、街路樹のそばに立っている。
「すみません」
思わず声をかけた。だが返事はない。その人影は、ゆっくりとしゃがみ込み、草の中をかき分けていた。
何をしているのか見えなかったが、
草の間から「ぐっ」という低い音が聞こえた。動物の唸り声のようにも、人のうめき声のようにも聞こえた。
そして、その人影は茂みに手を突っ込んだまま動かなくなった。数秒後、草の奥から「ずるっ」という音がした。
……何かが、その人を引きずり込んだ。
俺は息を呑み、動けなかった。見間違いだと思いたかった。でも確かに、そこには誰もいない。その人のものだと思われるボールペンが一本、落ちていた。
風もないのに、草がざわざわと揺れる。
次の日、その話を同僚にした。でも笑って信じてくれなかった。
「どうせ酔ってたんだろ」
「飲んでないって」
「あはは。夜道ってのは、光の加減で何でも人に見えるんだよ。街路樹の根っこって柔らかいから、なんかの動物が巣を作ってるだけだろ」
俺もそうだと自分に言い聞かせた。だが、数日後、ニュースで聞いたんだ。
「この付近で行方不明者が相次いでいます」
ニュース画面に映っているのはあの街路樹の付近だ。行方不明と報道されたのは三人。
どれも夜間に姿を消していた。そのうち一人は、俺が見たあの晩と同じ時間帯にいなくなっていた。
それから俺は、その通りを避けるようになった。遠回りして帰る。あの木のそばには絶対に近づかない。
けれど、不思議なことに、避ければ避けるほど気になってくる。あの茂みの奥に、いったい何があるのか。見間違いだったのか、それとも本当に何かが潜んでいるのか。
そして、先週の夜。
どうしても気になって、見に行ってしまった。街灯の下、例の街路樹は静かに立っていた。
風はなかった。でも草だけが、揺れていた。
俺は息を止め、ゆっくりと近づいた。
足元のアスファルトがやけに冷たく感じた。草むらの前でしゃがむと、土の匂いがする。そして、見えた。
靴の先。
土に半分埋もれた白いスニーカー。だが、そこには――足が入っていた。
凍りついたように動けなかった。
次の瞬間、草の奥からすうっと冷たい風が吹いた。
いや、風じゃない。息を吸い込むような音だった。
地面の下で、何かが呼吸していた。草が波のように揺れた。足元の影が歪んだ。
そのとき、誰かの手が俺の足首をつかんだ。冷たく、骨ばった指。反射的に蹴り飛ばして逃げ出した。後ろも振り返らず、走った。
息が切れて、振り返ると、誰もいなかった。ただ、草だけがまだ、わずかに揺れていた。
次の日、もう一度見に行った。昼間の明るい時間に。
街路樹の下は、すっかり整備されていた。
草も刈られ、土も固められ、きれいな花が植えられていた。まるで何もなかったかのように。
だけど、一つだけ妙だった。花壇の端に、小さな木の杭が立っていた。その上に貼られた紙には、こう書かれていた。
《この下には、根が広がっています。掘り返さないでください》
俺はその場を離れた。
だけど、帰り道、ふと足元を見ると、靴の裏にべったりと泥がこびりついていた。道がぬかるんでいるでもない。気味が悪かった。
そしてなぜか今も、デスクの下でカサカサと音がする。
……あの夜に聞いた、草の音に似ている気がする。



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