#503 途切れた日

ちいさな物語

その朝は、特に変わったことなんてなかった。いつも通り、7時にアラームを止め、トーストを焦がし、ニュースアプリを開きながらコーヒーをすする。

ただ一つだけ違っていたのは、繁忙期のための十連勤で体がぐだぐだになっていることと、Wi-Fiの電波がやけに弱かったことだ。

「またかよ」

うちのルーターは古い。たまに機嫌を損ねる。でも、出勤時間が迫っていたから、気にも留めずスーツに袖を通した。

鏡の前でネクタイを締める。その瞬間だった。

――ぷつん。

空気が一瞬、静まり返った。

スマホの画面を見ると、Wi-Fiのマークが消えている。やばい。会社から連絡があっても気づけないじゃないか。

「電波が切れたのか」と思い、ルーターのランプを確認する。だが、点滅していない。

いや、それ以前に、部屋全体が無音だった。

窓の外を見ると、通勤ラッシュのはずの通りに誰もいなかった。車も、人も、犬も。なぜか風の音だけが、ひゅうひゅう鳴っている。

スマホを握る。

再起動しても、電波は戻らない。ニュースも、メールも、SNSも開けない。そこに表示されたのは、見慣れない通知だった。

《社会との接続:いったん不明》

ふざけたエラーだ。

でも、それを見た瞬間、背筋がぞくりとした。まるで世界そのものが、俺を「オフライン」にしたような気がした。

急いで会社に向かう。

けれど、オフィス街は静かで人がいなかった。ドアに手をかけると、まるで映像の中のものに触れたみたいに、指がすり抜ける。

「おい……冗談だろ」

焦って外に出ても、どこへ行っても同じだった。コンビニの明かりは点いているのに、中には誰もいない。交差点の信号だけが、青と赤を虚しく繰り返していた。

けれどどこかで「今日は仕事しなくていいな」と安心する自分がいた。いっそこのまま戻らなくてもいいかもしれない。

俺はポケットの中でスマホを取り出す。

「接続:いったん不明」

歩きながら、ふと思い出した。昔、母親が言っていた。

「ネクタイって、首輪みたいなものよね」

そのときは笑った。

でも今思えば、あれは社会へのリードだったんじゃないか。俺たちは毎朝、自分の意志で首を締めて、社会につなげていたんじゃないか。

試しにネクタイを緩めてみた。その瞬間、スマホの画面がちらりと光った。

《接続再試行中》

息を呑んで、もう一度締める。電波が途切れる。

緩める。戻る。

締める。途切れる。

まるで、ネクタイが世界へのスイッチになっていた。

俺は途方に暮れて、ベンチに座った。空には雲が流れている。時間は進んでいるようで、進んでいない。音がすべて遠くに行ってしまったみたいだった。

ポケットの中で、スマホが小さく震えた。画面には、一つのメッセージが表示されていた。

「ネクタイを外しなさい」

驚いて辺りを見回す。誰もいない。だけど、どこかで聞き覚えのある声がした。

「無理しなくていいよ」

「誰だ?」

「ずっと見てた」

耳の奥で、柔らかな声が響く。それは、母親の声に似ていた。

「ネクタイを外しなさい。息ができないでしょ」

気づけば、胸の奥が苦しかった。

ネクタイがやけにきつく、首に食い込んでいた。指をかけて外すと、ようやく空気が入ってきた。

その瞬間、街のざわめきが戻ってきた。車の音、人の声、アナウンス。スマホの通知が一斉に鳴り始めた。

ああ、戻ってきたんだ――社会に。

でも、ふと見ると、手に持ったネクタイが濡れていた。雨じゃない。涙だった。いつの間にか泣いていた。

あの声が、まだ耳の奥に残っていた。

「無理してつながらなくていいのよ」

その言葉に、胸の奥がぎゅっと痛くなった。

俺は、ネクタイをカバンの中にしまった。代わりに、上を見上げた。

スマホが再び震えた。

《社会との接続:再開しました》

その文字を見て、俺は微笑んだ。たぶん、俺はもう前みたいには戻れない。けれど、今の接続は、少しだけ本物に思えたんだ。

空は広くて、風は優しかった。

今はもう、あの細い布に縛られずに、ちゃんと呼吸できている。

世界のWi-Fiが切れても、心の中の接続だけは切らないようにしよう。ただ静かに、自分自身に向かって。

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