#506 眠れない羊の夜

ちいさな物語

その話を誰にしても、みんな笑って信じちゃくれないんだ。でも俺にとっては、あれは確かに起きたことなんだよ。

最初の夜は、ただ眠れなかっただけだった。蒸し暑くて、枕の中までじっとりしててな。寝返りばかり打ってるうちに、気づいたら真夜中になってた。

時計を見ると午前二時。テレビをつけても、通販番組しかやっていない。仕方ないから、昔聞いた「羊を数えると眠れる」ってやつを試してみたんだ。

「羊が一匹、羊が二匹」

最初のうちは、馬鹿みたいに思えて笑いそうになったよ。でも、十匹を超えたあたりから、不思議な感覚がしてきた。まぶたの裏に、本当に羊が見えるんだ。真っ白い毛並み、丸い体、柔らかそうな足音。ふわりと柵を飛び越えて、草を踏んで消えていく。

「羊が三十匹、羊が三十一匹」

数えるほどに、体が沈んでいく感じがした。ああ、これは眠れるかもしれない――そう思った瞬間、目が覚めた。……いや、起きたというより、目を開けたら夜だった。

感覚的には朝になっているはずなのに、空はまだ暗いままだった。時計を見ると、午前二時のまま針が止まっている。

妙だと思いながらも、また布団に潜った。けれど眠気は戻ってこない。仕方なく、また羊を数えた。

「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹」

今度は、羊の群れがはっきり目の前に見えた。俺の部屋の中を、羊たちが静かに歩いていく。どれも真っ白で、目だけがやけに黒い。その瞳が、どこか悲しそうだ。

数が増えるたび、部屋の空気が少しずつ冷たくなっていった。十匹を超えたころには、息が白くなっていた。窓の外を見ても、暗闇しかない。遠くで、何かの鳴き声を聞いた気がした。

「羊が二十匹、羊が三十匹」

いつの間にか、床に白い毛が落ちている。触ると少し温度を感じた。……その瞬間、俺ははっきり悟った。あれは毛じゃない、夜の切れ端だ。

羊を数えるたびに、夜が増えていくんだ。

馬鹿げてるだろ? でも本当にそうなんだ。三十一匹を数えたころには、外の景色が完全に消えていた。窓を開けても、真っ黒いもやのような空気しか見えない。遠くに街灯があるはずなのに、何も光らない。夜が増えすぎたんだ。そして白い羊は、いつの間にか黒い羊になっていた。

俺は怖くなって、もう数えるのをやめようとした。でも、耳の奥で声がしたんだ。

「つづけて」

かすれた、やさしい声だった。女でも男でもない、どこか遠い声。

「まだ、眠れていないでしょ。もっと夜を増やさないと」

その声に導かれるように、俺はまた口を動かしていた。

「羊が三十二匹、羊が三十三匹……」

羊たちは静かに増え、部屋を埋め尽くした。毛が光を吸い込むように、周りがますます暗くなる。やがて窓も、壁も、天井も消えた。

そこにあるのは、羊と俺だけ。

俺はもう、何匹目を数えているのかわからなかった。呼吸するたび、吐く息が夜の色をしていた。時計の針は止まったままだ。

「もうやめたい」と思っても、口が勝手に動く。「羊が……」そのたびに、空気がざわめく。黒い毛並みが擦れ合い、低い鳴き声が響く。

暗闇の中で、ひときわ大きな影が立ち上がった。他の羊よりもずっと大きく、目が赤く光っている。

その羊が、ゆっくりと俺のほうに顔を近づけてきた。鼻息が冷たく、夜そのものみたいだった。

そして、小さな声で言ったんだ。

「あなた、まだ眠れないのね」

俺は声が出なかった。羊は続けた。

「眠れない人がいるたび、羊を数えるたび、夜は増えるの。数を重ねるほど、世界は眠れなくなっていく。だからお願い、もう、数えてはだめ」

そう言って、羊は目を閉じた。その体がふっと崩れ、黒い霧になって消えた。

次の瞬間、朝の光が差し込んだ。カーテンの隙間から、まぶしい太陽の光。時計の針は午前七時を指していた。

俺はベッドの上で、汗びっしょりになっていた。部屋には何も残っていない。ただ、床に黒い糸のようなものが一筋だけ落ちていた。

拾い上げると、それは朝日に吸いこまれるように消えた。

それからというもの、俺はもう羊を数えない。眠れない夜があっても、数えようとは思わない。だって、あれは夜を増やす呪いだから。

……でもね、時々ふと思うんだ。街の灯りが妙に少ない夜、空がどこまでも黒い夜。あれは、誰かがどこかで羊を数えてるんじゃないかって。

もしかしたら、そのたびに、夜がまた一つ増えているのかもしれない。

そして、俺が眠れない理由も、その増えた夜の中に、まだ数え残された羊がいるからなんだろうなって。

今夜も何だか誰かが数えている気がするんだよ。ほら、聞こえる。かすかに。

――羊が一匹。

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