#508 雨の詩

ちいさな物語

あの傘を拾ったのは、数年前のことだ。梅雨の終わりの午後で、空はどんより曇っていた。駅前のベンチに、ひとつだけ忘れ物の傘が立てかけてあったんだ。

深い藍色の傘。

閉じた状態でも、どこか濡れているように見えた。俺はどうしても気になってしまってそれを手に取った。そして、そのまま差して帰ってしまった。

泥棒と言われても仕方ないけれど、そのときはそうするのが、自然で当たり前のことのように感じていた。

でも、その日の帰り道、ふと気づいたんだ。傘の表面に落ちる雨粒が、はっきりと形を持っていた。

ただの丸い滴じゃない。

ひとつひとつが、まるで筆で描かれた文字のように並んでいた。それが、言葉になっていたんだ。

最初に読めたのは「おつかれさま」だった。

あまりに自然に浮かび上がったから、見間違いかと思った。でも次の瞬間、雨粒がすっと広がって、別の言葉に変わった。

「ひとりで歩くのは、さみしいね」

足が止まった。

傘の内側は青白い光に照らされていて、周りの景色が少し違って見えた。道路の水たまりも、信号の色も、まるで絵の具を流したみたいに柔らかい。

不思議なのは、傘の外では普通に雨が降っているのに、その傘の中だけは、まるで別の、藍色の空の下にいるような気がしたことだった。

次の日も、傘を持って出かけた。雨が降ると、また言葉が現れた。

「今日のあなたは、静かな顔をしてる」

「見てごらん、道端の花が笑ってる」

「そのポケットの中に、想い出があるね」

そんなふうに、傘は俺に話しかけてくるように言葉を並べた。どれも短い詩のような言葉で、読むと胸の奥がじんとした。

仕事の疲れも、家の孤独も、その言葉を読むと少しだけ和らいだ。

不思議と、傘の下にいる間は誰にも会いたいと思わなかった。誰かと話すより、その言葉を読むほうが落ち着いた。

ある夜、会社帰りに大雨が降った。

雷が鳴って、道が川みたいに光っていた。傘を広げると、雨粒はいつもより激しく降り注いだ。そのぶん、文字もたくさん浮かんでいた。

「ひとりで泣く夜もある」
「でも、空は見ている」

「あなたの歩いた跡が、ちゃんと残っている」

胸がいっぱいになって、立ち止まった。こんな優しい言葉を、誰がくれるというんだろう。人でもなく、神様でもない。この傘の中だけで、誰かが俺を見守ってくれている。

ふと、通りの向こうにもう一人、同じような傘をさした人がいた。

紺色ではなく真っ白な傘だ。色は違うのに、なぜか「同じだ」と感じた。彼女はこっちを見ていた。

風に押されるように近づいていくと、その人の傘の表面にも、雨の文字が浮かんでいた。

でも、そこに書かれていたのは、俺の傘とまるで違う言葉だった。

「ずっと探していた」

「ようやく見つけた」

俺は一歩近づいた。

その人は目元がやさしげな女性だった。

「……その傘、もしかして」

声が震えていた。彼女はうなずいた。

「あなたの傘は詩をうたうのね」

聞けば、彼女も昔、同じ駅前で傘を拾ったという。ただし、それは「対の傘」だったらしい。二本で一組。片方が言葉を贈り、もう片方が言葉を受け取る。俺の傘は受け取る側だった。そして、彼女の傘は贈る側。

「あなたが読んでいた言葉、私が送っていたの。傘が、さみしそうな人の姿を映すから、つい声をかけてしまった」

一瞬、息が止まった。雨の音が遠のいた。

「でも、どうしてそんなことが」

「この傘の下ではね、空が別なの。だから、同じ空を見ていても、違う世界で出会える」

彼女の声が、雨に溶けるように消えていった。気づくと、彼女はもういなかった。そこには、白い傘だけが落ちていた。

その傘を拾おうとしたとき、俺の傘が強い光を放った。雨の粒が一斉に文字になり、空いっぱいに散った。

「これで、ふたりの空はひとつになった」

そう書かれていた。

次の瞬間、雨がやんだ。

傘を閉じると、藍色の表面はすっかり乾いていた。

それから、もうどんなに雨が降っても、あの文字は現れない。でも、不思議と寂しくはなかった。

あの夜から、俺の見る空はどこか柔らかい。傘を持たずに歩いても、雨粒はまるで言葉みたいに頬をなでていく。

時々、空の隅に白い影が見えることがある。まるで、誰かが向こうの空から詩を投げかけているみたいに。

そういうときは、心の中でそっとつぶやくんだ。

――聞こえてるよ。

そう言うと、ほんの一瞬だけ、空が藍色に光るんだ。まるで、あの傘の下だけに広がっていた別の空が、今も少しだけ残っているみたいに――

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