そのティールームに入ったのは偶然でした。
会社帰り、雨に追われるようにして駅前の裏道へ入り、古いレンガの隙間から漏れる明かりに引き寄せられたんです。
木製の小さな看板には「景色が見えるお茶のお店」と書かれていました。
その意味がわからないまま扉を開けると、内側は不思議なほど静かで、少し甘いような、少し渋いような不思議な香りが漂っていました。
そこには年代物のティーカップが棚いっぱいに並んでいました。色も形もすべて違う。
淡い花模様のもの、青い幾何学のもの、金縁のもの。
まるでカップが自身の姿を誇っているかのように、互いに主張をしながら整列していました。
店主の女性は静かに笑いながら言いました。
「お好きなカップと茶葉を選んでください。組み合わせによって、見える景色が変わりますので」
「景色……ですか?」
そのときは、お茶の味についての専門的な言い回しか何かだろうと思ったんです。
でも棚を見ているうちに、なぜか気になって、花柄のカップに手が伸びました。
カップのふちには、小さな紅白の花が描かれて、見ているだけで胸が温かくなるような、昔の記憶をそっと撫でるような優しい絵柄でした。
次に茶葉の棚を見ると、「祝祭」という名前の瓶が目に入りました。
祝祭。
その響きがなぜか胸に残って、私は迷わずそれを選びました。
店主は茶器を整え、静かにポットに湯を注ぎました。
「目を離さないようにしてくださいね。景色が変わるのは抽出の瞬間だけです」
意味がわからないまま、私は湯気の立つポットを見つめていました。
すると、ちょうど茶葉が開いた瞬間でした。香りがふわりと立ち上り、視界を揺らしました。
次の瞬間、私はティールームから遠く離れた場所にいました。目の前に広がっていたのは、色鮮やかな花びらの海です。
空は金色に染まり、人々が花冠を頭に乗せて踊っている。
知らない言語の歌声が波のように押し寄せ、地面には花びらが舞い散っていました。
「え……?」
私は息を呑みましたが、不思議と怖くはありませんでした。
むしろ心の奥が柔らかくほどけるような喜びがあったのです。
そのとき、紅白の花びらを両手いっぱいに抱えた少女が私の前に来て、にこりと笑いました。
「ようこそ。あなたの選んだカップと茶葉はあなたをここへ招きました」
言葉がわかったことにまず驚きました。
「えっと、それはどういう……?」
少女は花びらをひとつ摘んで、私の耳元にそっと吹きかけました。それは穏やかな春風のように私の髪をそよがせました。
「ここは祝祭の地」
私は戸惑いながらも、辺りを見回しました。
人々が抱き合って笑い、花びらが空へ舞いあがり、子どもが子うさぎのように跳ね回る。
誰もが祝う理由を持ってここに来ているようでした。
少女は私の手を引きながら言いました。
「あなたの祝祭は――まだ始まっていないみたい」
「始まっていない?」
「ええ。まだあなたの心が祝うべきことを探しているの」
私は返事ができませんでした。
どうすれば始まるのか、思い当たることが何もなかったからです。
少女は笑いました。
「でも大丈夫。誰にでも祝祭はやってくる。おめでとう!」
そのとき、風が強く吹き、花の色が空いっぱいに広がりました。
景色が光にほどけていきました。
気がつくと私はティールームに戻っていました。気づくと店主がそっとカップに湯気の立つお茶を注いでくれていました。
「見えた景色は、それぞれの心が呼応した場所です。お気に召したのなら、また別のカップでも召し上がってみてくださいね」
私はカップを見つめながら、小さく息を吐きました。
祝祭は、まだ始まっていない。
けれど、確かにどこかで私を待っている――そんな明るい気分になりました。
店を出る頃には、雨はすっかり上がっていました。夜の街の色が、ほんの少しだけ鮮やかに見えます。
次はどんなカップを選ぼうか。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと家路につきました。



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