#521 山賊と肩甲骨と納豆

ちいさな物語

あの日、山に入ったのはほんの気まぐれだった。ちょっと散歩、くらいのものだ。

秋の終わりで、木々は赤く、風がやけに澄んでいた。

弁当の包みには、祖母が持たせてくれた小さな納豆の包みが入っていた。

「山で食う納豆はうまいぞ」と祖母は笑っていた。とりあえず俺はそれを信じることにして、納豆を楽しみに山道を登っていった。

しかし、昼を過ぎたあたりで道に迷った。気づけば太陽は傾き、風が冷たくなっていた。

「やばいな……」とつぶやいた次の瞬間、背後から何かが飛びかかってきた。

「動くな!」

振り返ると、ぼろぼろの毛皮をまとった大男がいた。片目に傷、背には斧。どう見ても山賊だった。

「おまえ、何をしにここに来た」

「い、いや、ただちょっと散歩と、納豆を……」

「殺すぞ!」

話がまるで通じない。

気づけば俺は縄で縛られ、山奥の小屋に連れて行かれた。

小屋の中には、他にも二人の山賊がいた。どちらも髭だらけで、恐ろしく臭かった。

「頭(かしら)、こいつ、納豆持ってやすぜ」

「納豆? なんじゃそりゃ、毒か?」

「違います! 豆です!」

蓋を開けると、あの独特の匂いが立ち上った。山賊たちは一斉に顔をしかめた。

「くせえ! 腐っとる!」

「発酵しているって言ってください!」

俺は必死に説明した。だが彼らは耳を貸さない。

「……まあいい。そいつは後で犬にやる。お前はここで働いてもらう。逃げたら、肩甲骨ごと叩き割る」

その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。肩甲骨ごと叩き割るって、なんか変な言い回しだけど、何かの比喩だろうか。

それから数日、俺は彼らの飯炊き係になった。祖母が心配しているだろうと思うと胸が痛む。

小屋は寒く、食料は乏しかった。俺はただ、自分が生き延びるために、せっせと飯を作って山賊たちに食わせてやった。

面従腹背。逃げるチャンスが訪れるまで、納豆のように粘り強く耐え続けた。

ある夜、頭がぼそりと言った。

「人間、何のために食うと思う?」

俺は返事に詰まった。いきなり哲学か?

「生きるため……ですかね」

「違う。思い出のためだ」

何か変なものを食べさせただろうか……。

「それは、どういうことでしょうか」

「ああ。昔の味を食えば、昔のことを思い出すだろう。それが生きる力になるんだ」

「ああ、そういう……」

たいして深くない話だった。聞いて損した。

しかしその言葉を聞いたとき、俺はふと祖母の顔を思い出した。あの皺だらけの手で、いつも納豆を混ぜていた。

「ほら、粘りは命だよ」と笑っていた祖母。俺は涙が出そうになった。早く帰りたい。

次の日の朝、俺は勝手に炊事場で納豆を作り始めた。大豆を煮て、藁をほぐしてそれに包む。山賊たちは最初、不審そうに見ていたが、止めなかった。

しばらく経って豆ができあがった。小屋の中に、あの懐かしい匂いが満ちた。

「できました。食べてみてください」

「またあの腐ったやつか……」

「発酵していると言ってください。騙されたと思って食べてみてください」

俺は器に盛り、箸で粘りを見せた。山賊たちは顔をしかめつつ、恐る恐る口に入れる。

沈黙が流れた。

やがて、頭がぼそりと言った。

「まずくは……ないな」

「ああ、意外と旨味がある気がする」

「胸のあたりが、温かい。昔、母親がよく、こういう変な飯を作ってくれた。そういえば、あれも豆を潰してたな……」

隣の山賊がうつむいた。微妙に失礼なことを言われた気がする。変な飯とはなんだ?

「俺の村でも、正月に豆を煮た。家族を思い出す」

みんな、黙って納豆を食べた。

その夜だけは、小屋の中が静かだった。焚き火の音と、遠くの風の音だけが聞こえていた。

翌朝、頭が俺を外へ連れ出した。

「お前、もう帰れ」

「え?」

「お前の作った飯、悪くなかった。家に帰ったような気分になる。これ以上お前がここにいたら、俺たちの心が弱くなる」

また訳のわからないことを……。山賊というのは、要するに暴力でしか生きていけない馬鹿の集まりなので仕方ない。

「……いや、でも、逃げたら肩甲骨が」

「肩甲骨はもういらん。代わりに、これを持っていけ」

そう言って、彼は小さな包みを渡した。中には、たっぷりと藁が入っていた。

「あの腐った豆も悪くなかったぞ」

そう言って、頭は背を向けた。朝の光が差し、雪がきらめいていた。

俺は何も言えず、ただ頭を下げた。よくわからないが、やっと帰れる。

里へ戻ったあと、祖母は驚きながら俺を抱きしめた。

「よく帰ったねえ。もう、山賊に殺されたのかと……。おや、上等な藁だこと!」

その夜、俺は祖母の台所でまた納豆を混ぜた。湯気の向こうに、山賊たちの顔が浮かんだ。

粘りを見つめながら、俺は静かに呟いた。

「なんか本当に腹が立つくらいクソな連中だったけど、納豆を褒められたのはうれしかったな」

それから毎年、秋の終わりになると俺は山へ行ってみたが、山賊たちに出くわすことは一度もなかった。

――粘りは命。

何にせよ、帰れるまで諦めずに粘ってよかった。

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