隣の芝生は青い、という言葉がある。
だが、私の家の隣にある芝生は、青いどころか発光しているんじゃないかと思うほどに眩しかった。
数年前に越してきた工藤家のことだ。
旦那さんは大手商社勤務で、毎朝爽やかな笑顔でジョギングを欠かさない。
奥さんは料理上手で、キッチンから手の込んだ料理や、焼きたてのパン、焼き菓子の甘い香りを漂わせている。
一人息子である小学生の男の子は、礼儀正しく、泥だらけになって遊ぶのが似合う快活な少年だ。
週末になれば、手入れの行き届いた庭でバーベキューが始まる。
ジュウジュウと肉が焼ける音、炭の爆ぜる音、そして何より、一切の曇りがない彼らの笑い声。
「あなたー、お肉焼けたわよー」
「おっ、サンキュ。あ、拓也! お前またピーマン残して」
「えー、だって苦いんだもん!」
「ははは、好き嫌いしてるとパパみたいに大きくなれないぞー」
壁一枚隔てた私の部屋にまで聞こえてくるその会話は、あまりにも完璧すぎて、時折、自分が質の悪いドラマのエキストラになったような気分にさえさせられた。
独身で、しがないフリーライターをしている私にとって、彼らの存在は「手に入らなかった人生」の標本そのものだったからだ。
妬ましい。けれど、あまりに善良な人たちで憎めない。
彼らは私に対しても完璧な隣人だったからだ。お裾分けのカレーを持ってくるときも、回覧板を回すときも、彼らの笑顔には一点の影もなかった。
違和感を覚えたのは、季節外れの台風が過ぎ去った翌日のことだった。
強風で私の家のベランダに飛んできた工藤家のタオルを届けようと、私は彼らの家側の垣根に立った。うちの庭から彼らが庭にいるのが見えたからだ。
そこにいたのは旦那さんと息子の拓也くん。庭の隅、物置の陰に隠れるようにして立っていた。
いつも陽の光の下にいるような存在の彼らがこそこそしていることに違和感を持った。声をかけそこなってしまい、立ち聞きするような形になってしまう。
その会話は私の知っている工藤家のものではなかった。
「……昨日の遠藤さんとの会食の『シーン』、あれちょっと間が悪かったですよ」
低く、冷ややかな声。それは、あの元気な息子、拓也くんの声だった。
ランドセルを背負って元気に走り回っていた少年が、ポケットからタバコの箱を取り出し、手慣れた手つきで一本くわえたのだ。
「すいません。ちょっとセリフが飛びまして」
頭を下げたのは、威厳ある父親役の旦那さんだった。彼は申し訳なさそうに肩を縮め、少年に向かって敬語を使っている。
「クライアントからの要望、忘れてないでしょうね? 『昭和的な温かさと、平成的な適度な距離感の融合』ですよ。アドリブ入れるなら、もっと自然にやってください。――ったく、何年やってんですか。来月の査定に響きますよ」
「はい、以後気をつけます……。あの、それで、今月の更新契約の件なんですが」
「あー、ママ役の佐々木さんが来月で契約満了だから、新しい人が来ます。引き継ぎ、しっかりやっておいてくださいね」
私は持っていたタオルを取り落としそうになった。
心臓が早鐘を打つ。見てはいけないものを見てしまったという恐怖と、わけのわからない好奇心がせめぎ合う。
彼らは普通の家族ではなかった?
他人同士が、何らかの契約に基づいて「家族」を演じている。
なぜ? 何のために?
その時、タバコの煙を吐き出した少年――いや、少年の演技をしている小柄な男――と目が合った気がして、私は慌てて身を隠した。
その日以来、私の生活は一変した。
壁の向こうから聞こえる笑い声が、すべてわざとらしく聞こえるようになったのだ。
「いってきまーす!」
「気をつけてねー!」
その明るい声の裏で、彼らがどれほど冷めた目で互いを見ているのかを想像すると、背筋が寒くなった。
だが、奇妙なことに、彼らの演技は以前にも増して完璧になっていった。まるで、私の視線を意識しているかのように。
数日後、私は意を決して、ゴミ出しのタイミングで旦那さんに声をかけた。
彼はいつもの爽やかな笑顔で「おはようございます!」と挨拶してきた。
「あの、工藤さん」
「はい、なんでしょう?」
「……大変ですね、“その”お仕事」
カマをかけたわけではない。ただ、口をついて出てしまったのだ。
彼の笑顔が、ピクリと凍りついた。
数秒の沈黙。その間、彼の瞳から「理想の父親」という仮面が剥がれ落ち、疲弊した中年の男の色が浮かび上がった。彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、深くため息をついた。
「わかりますか?」
声のトーンが一段下がった。
「ええ、まあ。実は先日ちょっと『契約』のお話をしているのが聞こえてしまって。立ち聞きするつもりはなかったんですけど。すみません」
「ああ、そうでしたか。いやあ、お恥ずかしい」
「あの、どういうことなんですか? それって、詐欺か何かですか?」
彼はあわてて首を横に振った。
「いいえ、とんでもない。信用してもらえないかもしれませんが、法に触れるようなことはしていませんよ。私たちは、ただ派遣されているんです」
「派遣?」
「『ファミリー・メンテナンス・サービス』。ご存知ないですか? まあ、一般には公表されてないサービスですからね」
彼はゴミ袋をゴミ捨て場に置いて、淡々と語り始めた。
「私たちのいるあの家……というか、土地には『瑕疵』があるんです」
「瑕疵?」
「ええ。物理的なものじゃありません。もっと、精神的な……磁場のようなものです。この土地はね、過去にとても悲惨な一家惨殺事件があった場所なんです。それ以来、この土地は強烈に『幸せな家族』を求めるようになった」
私は寒気を感じた。オカルトめいた話だが、彼の語り口は事務的で、まるで科学的な事象を説明しているかのようだった。
「この土地は、幸せな家族の営みを吸収していないと、どんどん『悪く』なっていくんです。最悪の場合、周囲の住人にまで不幸が連鎖する。だから、不動産管理会社が私たちを雇っているんです。24時間365日、ここで理想的な家族を演じ続け、この土地を鎮めるために。簡単にいうと過去の悲劇を帳消しにして、またこの土地を販売できるようにしたいわけですよ」
彼は自分の家を見上げた。
築浅の、白い壁が美しいモダンな家。それが、巨大な消化器官のように見えた。
「じゃあ、あなたたちは……」
「役者みたいなもんです。まあ、給料はいいですし、衣食住は保証されてますから。私は借金の返済があるし、あの『息子』役の彼は、化け物のような演技力を持っているのに、体格に恵まれなくて表舞台に立てなかったんだ。気の毒な話さ」
彼は自嘲気味に笑った。
「そうそう、来月で『妻』が変わるんです。契約の更新で。そうなると、また一から役を作り直さなきゃいけない。アドリブの呼吸を合わせるのも一苦労です」
彼は肩をすくめて見せる。
「もう、ゴミ出しにどれだけ時間かけてるの? 朝ごはん冷めちゃうわよ!」
家の玄関から、奥さんの明るい声が響いた。
彼は瞬時に表情を切り替えた。
疲れ切った中年男の顔が、瞬く間に「頼れるマイホームパパ」の仮面に覆われる。
「おっと、すまない! 今行くよ!」
彼は私に向かって、目だけで会釈をした。その目は『このことは秘密ですよ、あなた自身の安全のためにも』と語っていた。
それから一ヶ月が経った。
予言通り、「奥さん」が変わった。
以前の少しぽっちゃりした家庭的な女性から、スラリとしたヨガが趣味のしゃきしゃきした女性へ。
普通なら不審に思う変化だが、不思議なことに町内会の誰もそれに言及しない。
どうやら、「ファミリー・メンテナンス・サービス」の件は町内会でも承知していることらしい。自分は町内会との関係が希薄なので知らなかっただけだったようだ。
昨日の夜、私はベランダでビールを飲みながら、隣の家を眺めた。
工藤家からは新しい奥さんを交えた三人が、テレビを見ながら談笑している声が漏れてくる。新しい奥さんは、もう何年も前からそこにいたかのように、工藤家になじんでいた。
「ちょっと寒くなってきたよ」
「そうね。そろそろ窓を閉めましょうか」
奥さんの明るい声に、息子役の彼が窓を閉めようとしてこちらを見上げた。その一瞬、目が合った。
彼は私に向かって、ニヤリと笑った。それは子供の笑顔ではなく、ベテラン俳優が舞台袖で共演者に「うまく演ってるだろ?」と見せるような笑みだった。
窓が閉まる。
遮断された向こう側から、嘘のように明るい笑い声が響いてくる。
私はビールを飲み干し、部屋に戻った。
彼らの幸福は偽物だ。いや、幸福なのかすら知りようがない。
あの土地が周りにすら不幸の連鎖をふりまくような物件であるなら、私たちは彼らの演技という名の生贄の上に胡座をかいている、ただの観客に過ぎないのかもしれない。
電子レンジで温めただけの弁当からは、どこかプラスチックのような匂いがした。
「……いただきます」
誰もいない部屋で呟く。私の声は誰にも届かずに消えていった。
もし、私がこの家を出て行ったら。次にここに住むのは、役者なのかもしれない。「理想的な隣人」を演じるための。
ここだけではなく「ファミリー・メンテナンス・サービス」として「幸せな家庭」を演じている人たちは案外たくさんいるのかもしれない。
箸をつけたハンバーグは、砂のような味がした。


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