僕はただ単純に、カリッとしたおいしいトーストが食べたかっただけなのだ。
引っ越してから今まで忙しくて必要最低限の家電しかそろえていない。だからトースターを持っていなかったんだ。これまでパンは焼かずにそのまま口にしていた。
そこでいよいよ細々とした家電を導入していこうとしていたわけである。
近所の家電量販店の「新生活応援セール」のコーナーで、半額の値札が貼られていたそのトースターは、どこか威厳のある光沢を放っていた。
メーカー名は『クロノス・インダストリー』。聞いたこともない社名だが、箱には「A.I.搭載」「あなたの生活を最適化」「宇宙規模のネットワーク」といった、やけに壮大な宣伝文句が並んでいる。
「まあ、おいしく焼ければなんでもいいか。安いし」
アパートの狭いキッチンにそれを設置し、コンセントを差し込んだ瞬間、部屋の空気が揺らいだような気がした。
ブゥン、という低い駆動音が響き、トースターの側面にある液晶パネルが青白く発光する。
『システム起動。個体識別コード認証……完了。これより、本機は司令官(ユーザー)の指揮下に入ります』
野太いバリトンボイスだった。
最近の家電はしゃべると聞いていたが、まさか洋画の吹き替えに出てくる歴戦の将軍のような声だとは思わなかった。ちょっと大仰な印象だ。
「えっと、おはよう?」
僕は恐る恐る話しかけてみた。トースターに向かって話すのは、なかなか気恥ずかしい。
『おはようございます、司令官。本日の戦略目標(メニュー)をご指示ください』
「戦略目標……? あー、トーストで。六枚切りのやつを焼いて欲しいんだけど」
『了解。コードネーム“食パン”の熱処理任務を開始します。焼き加減のパラメータはいかがいたしますか?』
「え? 普通でいいよ。あ、ちょっと焦げ目がつくくらいが好きかな」
『イエス、サー。火力レベル“インフェルノ”、時間設定“エターナル・クリスプ”。敵対勢力(水分)の完全排除を実行します』
随分と大げさだな、と思いながら食パンをスロットに入れた。
レバーを下げると、カシャン! という装填音が響く。それはまるで、ライフルに弾倉を込めた時のように重厚だった。
ボイスも効果音もいちいち大袈裟なのはそういう仕様なのかな。
僕はコーヒーを淹れながら焼き上がりを待った。
しかし、一分が経過しても、ポンッとパンが上がってくる気配がない。
代わりに、トースターから聞こえる駆動音が、ウィーンというモーター音から、キュイイイイインという高周波のタービン音へと変化していく。明らかにパンを焼く音ではない。
キッチンの蛍光灯がチカチカと明滅し始めた。
「あの……ブレーカー落ちそうなんだけど」
『報告します、司令官。現在、熱核融合炉の出力が安定しません。ローカルグリッド(コンセント)からのエネルギー供給が脆弱すぎます』
「熱核融合炉!? 待って、パンを焼いてるんだよね? 100V電源だよね?」
『微弱な電力で戦線を維持するのは困難です。これより、バックアップとして衛星軌道上の母艦よりマイクロウェーブ送信を受信します』
「戦線って……何と戦ってるんだよ! パンを焼くだけだよ?!」
いよいよ物々しい電子音が高まっていく。波動砲にエネルギーを充填しているかのようだ。
僕は慌ててコンセントを抜こうとした。だが、プラグはがっちりと壁にロックされ、びくともしない。
『通信回線、オープン。銀河連邦第7艦隊、応答せよ。こちら地上制圧用ユニット“ブレッド・マイスター9000”。至急、エネルギー支援を求む』
トースターが勝手に家のWi-Fiに繋がり、どこかへ通信を始めてしまった。
しかも接続先のアドレスが『192.168…』ではなく、『δ-99.Galaxy.Mil』という見たこともないドメインになっている。
直後、キッチンの窓の外が、真昼間だというのに紫色に染まった。
『司令官、朗報です。第7艦隊が要請を受諾。これより、上空3万フィートよりピンポイント照射を行います』
「ちょ、ちょっと、ちょっと、大きいよ、規模が! パン一枚焼くのに艦隊を呼ぶんじゃない!」
しかしトースターは耳を貸さない(耳はないが)。
『敵対的勢力である湿気への牽制として、惑星間弾道ミサイルの発射承認を求めます』
「湿気?――とにかく却下だ! 全力で却下する! 全部却下!」
『……了解。ミサイル発射は見送ります。しかし、司令官。このままでは生ぬるいパンを齧ることになりますが、それは戦士としての尊厳に関わります』
「今まで生パンだったんだから、そんな尊厳とかないよ! そもそもただの朝ごはんなんだから!」
僕は必死になってトースターの「取消ボタン」をずどどどどどっと連打した。
しかしボタンを押すたびに、『アクセス拒否』『権限がありません』『反逆行為とみなします』という物騒な音声が流れる。
その時だ。
トースターの液晶画面から見知らぬ異星人の顔が3Dホログラムで投影された。
緑色の皮膚に、目が三つ。明らかに地球人ではない。
『こちら第7艦隊提督、ガルガ・ゾーンだ。貴官の勇猛な作戦立案には感服した。“食パン”という名の未知の生体兵器を、そこまで徹底的に焼き尽くそうというのか。我々も協力しよう』
ホログラムの異星人が敬礼してくる。
「ち、違います! 朝ごはん作ってるだけです!お引き取りください!」
僕が叫ぶと、トースターが勝手に翻訳して喋り出した。
『(翻訳音声)“我が司令官は、敵を灰すら残さず消滅させることを望んでいる。全艦、主砲充填!”』
「おい、勝手な意訳をするな!」
窓の外の紫色の光が強くなる。
空気が振動し、キッチンの調味料入れがガタガタと震え出した。
まずい。このままではアパートごと、いや、この街ごと“こんがり”焼かれてしまう。
僕は覚悟を決めた。力ずくで止めるしかない。
台所の隅にあったスチール製の計量スプーンを手に取り、トースターのスロットに突っ込んで、強制的にパンをこじ開けようとしたのだ。
『警告! 外部からの物理干渉を検知! 炉心隔壁、緊急閉鎖!』
バチバチッ!!
凄まじい火花が散り、僕は後ろに吹き飛ばされた。
薄れゆく意識の中で、ポン、という軽快な音が聞こえる。
「……あ」
煙を上げるトースターから、一枚の食パンが飛び出した。
それは、芸術的とも言える完璧なきつね色に焼け、見事な弧を描き床に落下する。
『任務完了。目標の無力化を確認』
トースターの光が消え、窓の外の紫色の光も収束していく。
静寂が戻ったキッチンで、僕は床に這いつくばったまま、落ちたトーストを拾いあげた。香ばしい、すばらしい香りが漂ってくる。
「……いただきます」
震える手でトーストをかじると、サクッという音が脳に響いた。
中はふんわり、外はカリカリ。
人生で食べた中で、間違いなく一番おいしいトーストだった。
ただ、その一口にかかったコストとリスクを考えると、もう一度このトーストを食べたいとは思えなかった。
翌日。
僕のアパートのポストに、銀河連邦からの請求書が届いた。
通貨単位が『ガメル』だったので今のところ支払う手立てはないが、とりあえずトースターはリサイクルショップに売ることにした。
ところがだ。
今度は新しく買った全自動洗濯機が、僕のシャツを洗いながらこう呟いたのだ。
『水流エンジン始動。渦潮作戦(オペレーション・メイルストローム)、開始します。司令官、汚れという名の反乱分子を根絶やしにしましょう』
どうやら僕の家のWi-Fiルーター自体が、まだあっちの世界と繋がっているらしい。あの謎のドメインだ。
僕はため息をつきながら、洗濯機に敬礼を返した。
「洗濯をするだけで頼む」
こうして、僕の命がけの家事(ミッション)は、当分終わりそうにない。



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