その村の名を、仮に「K郷」と呼ぶことにする。
民俗学のフィールドワークとして訪れたその場所は、地図の上では等高線が重なり合うだけの、深い皺のような山間に隠れていた。
バスは一日に二本、携帯電話の電波は村の入り口にある大きな杉の木の下でしか拾えない。そんな隔絶された場所だった。
私は村外れにある古い民家に宿を借りた。
囲炉裏には赤々と火が灯り、鉄瓶がシュンシュンと鳴っている。
向かいに座るのは、この村で最も長く生きているという源三さんという老人だ。
刻まれた皺は源三翁が過ごした長い年月を思わせるには十分に深かった。
「先生、あんた、何か探しに来たのかね」
源三さんは、自家製の干し柿を差し出しながら、掠れた声で言った。
「ええ、この辺りのお話を聞かせていただきたくて――」
私がこの地域の古い伝承や失われつつある風習を記録しに来たのだと伝えると、老人は目を細めて窓の外の闇を見つめた。
「この村の裏手、三つの峰が重なるちょうど真下に、地図には載らん谷がある。名を『灯し谷』というんじゃ」
源三さんの語る物語は、静かに、だが確かな重みを持って私の心に染み込んできた。
その谷には、人間がこの世に置き忘れてきたあらゆる「音」や「匂い」が流れ着くのだという。
たとえば、子供の頃に聞いた子守唄や母親の背で聞いた煮炊きの匂い、子供たちの囃し立てる声――
そういった、持ち主さえ忘れてしまった断片たちが、あの谷では昨日のことのように息づいているのだと。
「それは昔の話ではないんですか?」
「昔から、今もじゃ。一人の若者がその谷へ迷い込んだことがあってな」
源三さんは、囲炉裏の灰を火箸でいじりながら続けた。
「若者は、都会での暮らしに疲れ果て、自分の心さえ見失いかけていた。だが、谷の霧を抜けた先で、彼は見てしまったんじゃ。自分が幼い頃に可愛がっていた、とうに死んだはずの犬が、草原で元気に跳ね回っている姿を。そして、若き日の母親が、鼻歌を歌いながら真っ白なシーツを干している光景をな」
私は息を呑んだ。思っていたような話とは随分と違う。それは大昔の伝承ではなく、つい最近の出来事のようだった。
「幻覚や幽霊の類でしょうか」と問うと、老人は首を振った。
「いや、あれは命の残り香じゃ。人が生きていく中で、どうしてもこぼれ落ちてしまうもの。それがどこからか流れ流れて、あの谷に溜まり、結晶になる。あそこは、世界で一番優しいゴミ捨て場のような場所なんじゃよ。ずっと昔から、そして今も」
その夜、私は源三さんの言葉が耳から離れず、浅い眠りの中で不思議な夢を見た。
セピア色の夕焼けがどこまでも続く土手。
私は見知らぬ少年と一緒に、真っ赤なトンボを追いかけている。少年の顔は逆光で見えないが、その笑い声には聞き覚えがあった。それは、私が大人になる過程で、どこかに置き去りにしてきた何かの記憶。
翌朝、私は源三さんに教えられた通り、村の裏手にある古い社を越えて森へと入った。
道とは呼べないような獣道を進み、藪をかき分け、霧が立ち込める斜面を降りていく。
どれくらい歩いたのかよくわからなくなってきた頃、ふっと風の匂いが変わった。
湿った土と、どこか甘い草の匂い。
そして、どこからか遠く、小さな笛の音が聞こえてきた。それは小学校の音楽室で誰かが練習していたような、たどたどしい旋律だった。プールの塩素の臭い、午後の眠気、淡々と耳に流れてくる教師の声――
霧の向こうに、確かに何かが見えた。
それは、かつて私が住んでいた古いアパートの、ペンキが剥げた緑色のドアのようにも見えたし、大好きだった祖母が使っていた古びた裁縫箱のようにも見えた。
手を伸ばせば、その温かさに触れられるような気がした。
だが、その瞬間、背後から鋭い鳥の鳴き声が響いた。
ハッと我に返ると、目の前にあったはずの景色は霧の中に消え、ただの深い谷底が広がっているだけだった。
霧に何かが投影されていたのか。それにしてはリアルだったし、自分の記憶と見事に合致していた。
村に戻ると、源三さんは何も聞かずに、ただ温かいお茶を淹れてくれた。
「お帰り。何か見つかったかね」
私はただ黙って頷いた。
ここでは民俗学的考察は野暮な気がした。現在も続いている不思議な現象だ。世の中、そんなこともあるのだろう。あの甘い草の香りがまだ鼻腔に残っていた。
フィールドワークを終え、村を離れる日。
バスの窓から振り返ると、山々は深い霧に覆われ、もうどこに村があるのかさえ判然としなかった。
都会の喧騒に戻れば、また多くのことを忘れていくだろう。
大切な誰かの声や、自分だけの小さな誓い、日々の隙間にこぼれ落ちる幸せの欠片を。
忘れてしまったとしても、それらは無くなってしまうわけではない。
あの地図に載らない谷へと流れていき、別の誰かの記憶と混ざり合い対流する。
それは、この忙しない都会で暮らす身としては、あまりに甘美な妄想だった。
バスがトンネルを抜けると、目の前には現実の景色が広がった。
しかし私の心には、あの琥珀色の夕暮れが、一生消えない灯火として灯り続けている。



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