#546 非常階段と住民たち

ちいさな物語

地震が来たのは、夜の十時を少し回った頃だった。遅くなのにエレベーターには数人が乗り合わせていた。

最初は、いつもの小さな揺れだと思った。日本は地震が多い。

だが、揺れが不穏に続く。「これは大きいぞ」と、誰かがつぶやいたとき、エレベーターが停止した。そういうシステムになっているのか、最寄階でドアが開く。

廊下は真っ暗で非常灯の灯りのみがかすかに感じられた。誰かが舌打ちをする。

「非常階段で外に避難しましょう」

誰かがそう言い、全員が黙ってうなずいた。顔も薄ぼんやりとしてよくわからない。

重い扉を開けて、非常階段に足を踏み入れた瞬間、なぜか空気が変わった気がした。

空気が妙に湿っている。冷たいコンクリートの匂いに混じって、スパイスの香りがただよってきた。

なんだ、この香り?

1階分、降りたところで、上から足音がした。

見上げると、パンツ一丁の男が手すりにつかまり、遠心力で踊り場をカーブしている。

男には「見られてしまった」という気まずい表情はなく、ただ真顔だった。

「……非常時ですからね」

なぜか俺はそう言ってしまった。

男はうなずき、何事もなかったように追い越し、次の踊り場も遠心力でぎゅいんとカーブする。

そのとき、下の階から異様な鳴き声が聞こえた。

階段を降りてみると、ケージに入った、見たことのない生き物がいる。毛がなく、目だけが異様に大きい。

飼い主らしき女性はそれにやさしく語りかけている。日本語ではない。謎の言語だった。

さらに降りると、今度は着ぐるみの一団が非常階段に入ってきた。

ゆるキャラのようにも見えるが、なぜか微妙に怖い。中の人の気配はまったくしなかった。もしかして、本物?

すれ違うとき、頭だけが俺の方を向いた。

「まだ下がありますよ」

そう言われた。普通っぽい。

階段は、確かに続いていた。だが、もう何階なのか分からなくなっていた。非常階段はあまり使ったことがないので、よくわからないが、階数が表示されていないのはおかしくないだろうか。

さらに降りると、踊り場で円陣を組む人たちがいた。

ロウソク、粉、奇妙な模様。どう見ても何かの儀式だった。

俺が通ろうとすると、全員が一斉にこちらを見た。無言で。何を考えているのかわからない無の表情だ。

俺は会釈しながら、そっと通り抜けた。

ふとスマホを見ると、圏外。これが地震のせいなのかはわからない。足が重くなってきた。

さらに下の階では、強烈なカレーの匂いがした。鍋を抱えた老人が、慎重に階段を降りている。

「これは一階で振る舞うんだ」

炊き出しの準備がえらく早いな。

しかし、その一階がどこにあるのかわかっているのだろうか。俺自身は、ここが1階と言われても地下3階と言われても、信じてしまいそうなくらいだ。

気づけば、続々と非常階段を降りてくる住民たちは変人ばかりだった。

民族衣装の集団や、全身包帯の人、ずっと後ろ向きで降りる女。

俺は確信した。

この建物は、ただの集合住宅じゃない。変人たちの巣窟だ。

降り続けるうちに、疲れて足の感覚が薄れていく。

「もうすぐですよ」

誰かが言う。だが、先にはさらに踊り場が見える。

同じ非常灯、同じ壁。

人々がどんどん降りてくる。いや、たまに上ってくる。

さっきのパンツの男、あの着ぐるみ、儀式をやっていた人たち。

全員がなぜかこちらを見ている。階段は、まだ下に続いていた。

終わらない非常階段は恐ろしいが、こんな人たちと、同じ建物に住んでいた。それが一番、怖いことだった。

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