ねえ、君は「物に魂が宿る」なんて話、信じるかな?
付喪神なんて言葉もあるけれど、あんなおどろおどろしいものじゃない。もっとずっと、静かで、温かくて、それでいて少しだけ切ない……そんな不思議な出来事に、僕は出会ってしまったんだ。
場所は、街外れにある小さな古着屋。名前は伏せておくよ。彼女との約束があるからね。
そこは地下にある店で、階段を降りるたびに、湿気た空気、古い布地と少しだけお香が混ざったような独特の匂いが鼻をつく。
お世辞にも明るい店とは言えないけれど、棚には所狭しと世界中から集められたヴィンテージが並んでいて、服好きにはたまらない隠れ家みたいな場所なんだ。
去年の秋のことだったかな。
その日、僕は仕事帰りにふらっとその店に立ち寄ったんだ。
時刻はもうすぐ閉店の20時。客は僕一人だけで、店主は奥のレジで読書でもしているのか、店の奥は静まり返っていた。
オレンジ色の薄暗い照明が、並んだ服たちの影を長く引き伸ばしている。
店の突き当たりに、一体のマネキンが立っているんだ。
彼女はいつも、その店で一番見事な、あるいは一番「癖の強い」服を着せられている。その日は、1920年代のものだという、重厚な刺繍が施されたベロアのコートを羽織っていた。
僕はそのコートの質感が気になって、彼女のすぐそばまで歩み寄ったんだ。
その時だった。
「……ふう……」
耳元で、はっきりと聞こえたんだ。
深く、長く、何かに疲れ果てたような、女の人のため息。
心臓が跳ね上がったよ。だって、周りには誰もいないんだから。
あるいは僕の聞き間違いか。そう思って、恐る恐るマネキンの顔を見上げたんだ。すると――
無機質で滑らかなはずの彼女の顔が、ほんの少しだけ動いた気がした。そしてパチリ、と音が聞こえるような勢いで、彼女と目が合ったんだ。
彼女は、まるでいたずらが見つかった子供のような顔をして、唇に指を当てていた。
「見つかっちゃった」
鈴を転がすような、どこか懐かしい響きのある声。
僕は腰が抜けるかと思った。叫ぼうとしたけれど、喉が張り付いて声が出ない。
そんな僕の様子を見て、彼女はクスクスと肩を揺らして笑ったんだ。無機質のはずの肩が、柔らかそうに動く。
「そんなに驚かないで。別に取って食おうなんて思ってないわ」
彼女は、自分がなぜ動けるのか、なぜ喋れるのかをゆっくりと話し始めた。
君も知っているだろう? 古着には、それを着ていた人の思い出や感情、つまり「念」がこもるっていう話を。
この店にある服は、どれも数十年という時間を旅してきた猛者ばかりだ。
誰かの勝負服だったワンピース。誰かが恋人と別れた時に着ていたシャツ。誰かが死ぬまで大切にしていたジャケット。
そんな濃密な感情を孕んだ服を、彼女は何百着、何千着と着せ替えられてきた。
「毎日毎日、違う人の人生を羽織っているうちにね、なんだか私の中に色々なものが染み付いてしまったみたい。服たちが抱えてる記憶が、私に心を与えてくれたのよ」
彼女は自分の腕を愛おしそうに撫でた。その腕には、ベロアの重みがしっくりと馴染んでいるように見えた。
彼女は、実はとっても「いいやつ」だった。驚きが収まった僕に、彼女はいろんな話をしてくれた。
例えば、先週売れていったあの赤いネクタイは、本当は持ち主の浮気がバレた時のものだから縁起が悪いわよ、とか。
今、僕が手に取ろうとしているこのジーンズは、前の持ち主がすごく大切に育てたものだから、君ならきっと似合うわ、なんてアドバイスまで。
彼女が言うには、古着屋にいるのは退屈じゃないけれど、時々こうして「心」を外に出したくなるんだって。
でもね、一つだけ絶対に守らなきゃいけないルールがある。
「店員さんや店主さんには、絶対に内緒にしておいてね」
彼女は少しだけ真剣な表情になって僕に囁いた。
もし、自分が意思を持っていることがバレたら、きっと「不気味なマネキン」として処分されるか、見世物にされてしまうだろうから。
彼女はこの静かな地下室で、服たちの記憶と一緒に生きていくことを選んだんだ。たぶんだけど、その気になったら人間のふりをして自由に歩き回れるはずなのに。
しばらく話していると、奥のレジの方で椅子がガタンと鳴る音がした。店主が閉店準備のために立ち上がったんだろう。
彼女は一瞬で、表情のない、いつもの「美しい置物」に戻った。
その切り替えの見事さといったら、プロの役者でも敵わないほどだったよ。
店を出る時、僕は彼女が勧めてくれたジーンズを買った。
店主の老人は「お目が高い。それは良い品ですよ」と微笑んでいたけれど、僕は心の中で(知ってるよ、彼女に聞いたんだ)と呟いていた。
それ以来、僕は週に一度はその店に通っている。
彼女と話せるのは、店に僕一人しかいない、わずかな時間だけ。
彼女は時々、新しい服の着心地について文句を言ったり、店で見かけたおしゃれな客の話をしたりする。
僕にとっては、どんな親友よりも本音を話せる、不思議な話し相手になったんだ。
ねえ、君ももしどこかの古着屋で、ふと誰かに見られているような、あるいは吐息が聞こえたような気がしたら。
それはきっと、たくさんの思い出を着せられた彼女たちが、君に話しかけたくてうずうずしている証拠かもしれないよ。
でも、もし目が合って会話が始まっても、そのことを誰にも言っちゃダメだ。それは、君とマネキンたちだけの、特別な内緒話なんだから。
さて、そろそろ時間だ。
今夜も彼女、新しいドレスの話を聞かせてくれるかな。それじゃあ、僕はそろそろあの店に行くよ。またどこかで。



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