#558 チョークの決闘線

ちいさな物語

仕事帰り、人だかりを見つけて足をとめた。

チョークで書かれた円の周りに、同じく仕事帰りみたいな大人が十人ほど、距離を取って立っていた。

不思議と張り詰めた空気が漂っている。

「ここ、何やってるんですか」と隣の男に聞くと、男は小声で「バトル」と答えた。

「バトル?」と聞き返す前に、円の中に二人が入った。

片方はスーツの女性で、もう片方はパーカーの青年だった。

二人は向かい合い、深呼吸してから、同時に片手を差し出した。

じゃんけんみたいに見えたが、出したのはグーでもパーでもチョキでもなく、何かをつまむような仕草だった。

次の瞬間、観客の数人が息を呑み、誰かが「これは強い」と呟いた。

勝敗が決まったらしいのに、俺には何も見えなかった。

女性が軽く会釈し、青年は悔しそうに口元を噛んで円を出た。

そして青年は、ポケットから百円玉を一枚取り出し、円の縁に置いた。

観客がそれを見て頷き、女性はチョークの線を指でなぞった。

男が俺の耳元で言った。

「負けたほうが払う、勝ったほうは基本的に受け取らない」

確かに円の縁には小銭がいくつも置かれていた。だからなんだというのだろうか。

「何を競ってるんです」と俺が言うと、男は困った顔で笑った。

「見えないのか?」

「……何がです?」

男はふうと息をつくと、「見えなきゃ何もならん」と肩をすくめた。

ふざけてるのかと思ったが、観客は全員、真剣に円を見ていた。何かを目で追っていたようだった。

次の対戦が始まり、今度は中年の男と制服の学生が向かい合った。

中年男が指先で空中を撫でると、学生の眉がぴくりと動き、目が潤んだ。

学生は慌ててポケットを探り、鍵みたいなものを握って掲げた。

中年男が一歩下がり、観客から小さな拍手が起きた。

これは学生の勝ちだと、俺にもわかった。表情だけの情報だが。

そのとき、円の外に立つ女性が俺に紙切れを差し出した。

「初めてなら、これ、あげる。ルールだよ」

紙には一行だけ、崩れた字でこうあった。

「見た通り」

意味がわからず顔を上げると、女性はもう別の観客に紛れていた。何のルール説明にもなっていない。いや、もしかして見える人には見える文字が書かれているのか?

俺は紙を透かしたり、斜めから見たりしてみたが、どうしても他の文字は見えなかった。

意味がわからないし、その場を離れようと思ったが、なぜか足が動かなかった。何かが、円の中から俺の名前を呼んでいる気がした。

「次、出ます? 引かれているようですが」とさっきの男が言った。

俺は冗談のつもりで「これ、出たら何が起きるんですか」と聞いた。

男は肩をすくめ、「負けても財布がほんの少し軽くなるだけ。勝つと何かが変わる」と言った。

勝てば何のバトルなのか、わかるようになるのかもしれない。

気づけば俺は円の中に立っていて、向かいにはキャップを深くかぶった女が入ってきた。

女は無言で、指先を軽く鳴らした。

乾いた音がしただけなのに、俺の頭の中に、深夜の自販機の光が思い浮かんだ。

夜中に一人で缶コーヒーを買ったときの、あの青白い眩しさ。

俺は反射的に柏手を打った。頭に浮かんだ光景を振り払った方がいいような気がしたからだ。

女は首を傾げて少し微笑む。それから指を二本立て、俺の額の前でそっと折る。

その瞬間、俺の記憶の中で、あの自販機の位置だけが曖昧になった。自宅マンションの近くの自販機だと思っていたが、いや、駅前か? いやいや、職場の自販機だったかもしれない。

頭に浮かんだ光景の中で、すっかり迷子になっていた。

焦った俺は、財布からレシートを一枚引っ張り出して掲げた。直感的にこれだと思ったのだ。

昼に食べた定食屋の、印字の薄いレシートである。

唐揚げ定食980円……。

観客が一斉に「おお」と声を漏らした。

女の笑みが消え、半歩下がった。

俺は勝ったのだと理解した瞬間、すっと頭が軽くなった。はっきりと見えていた頭の中の自販機は消えている。

女は何も言わず、百円玉を円の縁に置き、人波へ戻っていった。

俺は勝者のはずなのに、やっぱり何なのかよくわからないままだった。

円を出ると、さっきの男が俺を見て頷き、「帰り、気をつけて」とだけ言った。

駅へ向かって歩き出すと、いつも曲がる路地の入口が、そこにない。

代わりに見慣れない自販機がある。俺は冗談だろ、と笑おうとして、笑えなかった。

変わるって、こういうことなのか……。別に得でも何でもないし、100円を受け取った方がまだよかったんじゃないか?

電信柱に知らない地名の番地が書かれている。風景は変わらない。

路上の謎バトルは、自分の頭の中の街の確かさを、少しずつ消耗してしまう戦いだったのかもしれない。

確かなことはいまだにわからないが、それだけであれば、なぜみんな負けたくないという顔をして戦っていたのか。

勝った方がひどい目に遭っている気がするのだが。

俺はいつもの路地を曲がろうとして、どこかの家の外壁に顔面をぶつけた。

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