仕事帰り、人だかりを見つけて足をとめた。
チョークで書かれた円の周りに、同じく仕事帰りみたいな大人が十人ほど、距離を取って立っていた。
不思議と張り詰めた空気が漂っている。
「ここ、何やってるんですか」と隣の男に聞くと、男は小声で「バトル」と答えた。
「バトル?」と聞き返す前に、円の中に二人が入った。
片方はスーツの女性で、もう片方はパーカーの青年だった。
二人は向かい合い、深呼吸してから、同時に片手を差し出した。
じゃんけんみたいに見えたが、出したのはグーでもパーでもチョキでもなく、何かをつまむような仕草だった。
次の瞬間、観客の数人が息を呑み、誰かが「これは強い」と呟いた。
勝敗が決まったらしいのに、俺には何も見えなかった。
女性が軽く会釈し、青年は悔しそうに口元を噛んで円を出た。
そして青年は、ポケットから百円玉を一枚取り出し、円の縁に置いた。
観客がそれを見て頷き、女性はチョークの線を指でなぞった。
男が俺の耳元で言った。
「負けたほうが払う、勝ったほうは基本的に受け取らない」
確かに円の縁には小銭がいくつも置かれていた。だからなんだというのだろうか。
「何を競ってるんです」と俺が言うと、男は困った顔で笑った。
「見えないのか?」
「……何がです?」
男はふうと息をつくと、「見えなきゃ何もならん」と肩をすくめた。
ふざけてるのかと思ったが、観客は全員、真剣に円を見ていた。何かを目で追っていたようだった。
次の対戦が始まり、今度は中年の男と制服の学生が向かい合った。
中年男が指先で空中を撫でると、学生の眉がぴくりと動き、目が潤んだ。
学生は慌ててポケットを探り、鍵みたいなものを握って掲げた。
中年男が一歩下がり、観客から小さな拍手が起きた。
これは学生の勝ちだと、俺にもわかった。表情だけの情報だが。
そのとき、円の外に立つ女性が俺に紙切れを差し出した。
「初めてなら、これ、あげる。ルールだよ」
紙には一行だけ、崩れた字でこうあった。
「見た通り」
意味がわからず顔を上げると、女性はもう別の観客に紛れていた。何のルール説明にもなっていない。いや、もしかして見える人には見える文字が書かれているのか?
俺は紙を透かしたり、斜めから見たりしてみたが、どうしても他の文字は見えなかった。
意味がわからないし、その場を離れようと思ったが、なぜか足が動かなかった。何かが、円の中から俺の名前を呼んでいる気がした。
「次、出ます? 引かれているようですが」とさっきの男が言った。
俺は冗談のつもりで「これ、出たら何が起きるんですか」と聞いた。
男は肩をすくめ、「負けても財布がほんの少し軽くなるだけ。勝つと何かが変わる」と言った。
勝てば何のバトルなのか、わかるようになるのかもしれない。
気づけば俺は円の中に立っていて、向かいにはキャップを深くかぶった女が入ってきた。
女は無言で、指先を軽く鳴らした。
乾いた音がしただけなのに、俺の頭の中に、深夜の自販機の光が思い浮かんだ。
夜中に一人で缶コーヒーを買ったときの、あの青白い眩しさ。
俺は反射的に柏手を打った。頭に浮かんだ光景を振り払った方がいいような気がしたからだ。
女は首を傾げて少し微笑む。それから指を二本立て、俺の額の前でそっと折る。
その瞬間、俺の記憶の中で、あの自販機の位置だけが曖昧になった。自宅マンションの近くの自販機だと思っていたが、いや、駅前か? いやいや、職場の自販機だったかもしれない。
頭に浮かんだ光景の中で、すっかり迷子になっていた。
焦った俺は、財布からレシートを一枚引っ張り出して掲げた。直感的にこれだと思ったのだ。
昼に食べた定食屋の、印字の薄いレシートである。
唐揚げ定食980円……。
観客が一斉に「おお」と声を漏らした。
女の笑みが消え、半歩下がった。
俺は勝ったのだと理解した瞬間、すっと頭が軽くなった。はっきりと見えていた頭の中の自販機は消えている。
女は何も言わず、百円玉を円の縁に置き、人波へ戻っていった。
俺は勝者のはずなのに、やっぱり何なのかよくわからないままだった。
円を出ると、さっきの男が俺を見て頷き、「帰り、気をつけて」とだけ言った。
駅へ向かって歩き出すと、いつも曲がる路地の入口が、そこにない。
代わりに見慣れない自販機がある。俺は冗談だろ、と笑おうとして、笑えなかった。
変わるって、こういうことなのか……。別に得でも何でもないし、100円を受け取った方がまだよかったんじゃないか?
電信柱に知らない地名の番地が書かれている。風景は変わらない。
路上の謎バトルは、自分の頭の中の街の確かさを、少しずつ消耗してしまう戦いだったのかもしれない。
確かなことはいまだにわからないが、それだけであれば、なぜみんな負けたくないという顔をして戦っていたのか。
勝った方がひどい目に遭っている気がするのだが。
俺はいつもの路地を曲がろうとして、どこかの家の外壁に顔面をぶつけた。



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