二十五歳の会社員、佐藤健斗は、公園のベンチで隣に座る同僚の美咲を見つめていた。
三年間、ずっと胸に秘めてきた想い。今日こそはそれを言葉にするつもりだった。
喉の奥がカラカラに渇き、心臓の音が耳元まで響いている。
「あの、美咲さん。ずっと言いたかったことが……」
健斗が勇気を振り絞り、あと言葉を紡ぐだけというその瞬間だった。
「失礼、少々お時間をよろしいでしょうか」
背後から、低く、湿り気を帯びた声が響いた。驚いて振り返ると、そこには漆黒のスーツを完璧に着こなした男が立っていた。
手には銀色の重厚なアタッシェケース。男は表情一つ変えず、健斗に向かって丁寧に一礼した。
「失恋保険の外交員、影山と申します。佐藤様、告白の成功率は現時点で十二・八パーセント。非常にリスクの高い投資です。……保険に入りませんか?」
美咲は虚空を見つめたまま動かない。周囲の時間が止まったようだった。美咲だけではない。周りのすべてが動きを止めている。
男の話によれば、この「失恋保険」は、告白に失敗した際、振られた相手と「同等の条件」を持つ異性との出会いを、一時間以内に保証するというものだった。
ただし、保険料は法外だった。健斗の貯金のほぼ全額。あまりにも高い。
「そんな保険、馬鹿げている。それに美咲じゃないとダメなんだ。そこをどいてくれ」
健斗は男を追い払おうとしたが、男は動かない。
「佐藤様、失恋の痛みはあなたの精神を数年にわたって蝕みます。想いが深ければ深いほど、それは大きな痛みとなるでしょう。その損失を考えれば、この額は決して高くありません。もしも彼女に振られた場合、空っぽになった心でどれほど長く耐えられるとお思いですか? 保険にさえ入っていれば、代わりの幸せがすぐに手に入ります。その安心感で堂々と告白にのぞむことができるわけです」
男の瞳は底なしの沼のように深く、見つめていると吸い込まれそうになる。
健斗は焦りはじめていた。美咲への想いが強いからこそ、拒絶される恐怖が、男の言葉によって増幅されていくように感じた。
振られたらどうしよう。確かに長い間苦しむに違いない。そこに心から愛せる恋人が現れると保証してもらえたら? いやいや、美咲への想いは代替される恋では満たされない。いや、しかし……。
結局、健斗は震える手で、男が差し出したタブレットに署名をしてしまった。
決済が完了したことを告げる無機質な電子音が響くと、男は満足げに微笑み、「では、がんばってください」と言って、停止している雑踏の中へ消えていった。
健斗は再び、美咲の方を向いた。
「……美咲さん、好きです。付き合ってください」
言葉が口を突いて出た。保険に入った安心感からか、かなり落ち着いている。
美咲はゆっくりと健斗を見つめ、少しだけ悲しそうな顔をして首を振った。
「ごめんなさい、佐藤くん。私――来月結婚するの。ずっと言えなくてごめんね」
その瞬間、健斗の胸に鋭い痛みが走った。
「……そ、そうですか。お幸せに」
美咲が立ち去ると、本当に一人の女性が歩み寄ってきた。
彼女は美咲と同じ背丈で、顔立ちもよく似た……いや、美咲をより理想的に整えたような、非の打ち所がない美貌だった。
「初めまして、健斗さん。私があなたのための『保証』です」
彼女は美咲の声にそっくりなトーンで、完璧な微笑みを浮かべた。
彼女は健斗が好きな話題を完璧に提供し、健斗が望むタイミングで手を握ってきた。
容姿も、性格も、すべてが美咲の「上位互換」だった。
失恋したはずなのに、健斗の隣には今理想の恋人がいる。
しかし、健斗は次第に奇妙な違和感に襲われるようになった。あまりにも完璧すぎて作り物めいたものを感じる。
彼女の肌は温かいが、その完璧さにはどこか機械のような冷たさを感じる。
一ヶ月後、健斗はあの保険外交員、影山を街角で見かけた。
「影山さん、彼女は一体何者なんだ。正直、完璧すぎて、ちょっと怖いんだ」
影山は足を止め、相変わらずの無表情で健斗を見た。
「ご不満ですか? 彼女はあなたが望んだ、失ったものと同等、あるいはそれ以上の価値を持つ存在です。遺伝子情報とあなたの記憶から構築された、最高級の代償ですよ」
「それって……人間なのか?」
健斗の疑問に影山は初めてくすりと笑った。
「佐藤様、一つだけお伝えし忘れていました。実はこのたぐいの保険、最近では『振る側』の方々にも人気でしてね」
影山は遠くを見つめながら続けた。
「実は、美咲様も以前より我々の保険に入っていたのですよ。不要な告白を受けた場合のための保険です。彼女の加入した保険では『罪悪感なく結婚するために、もし他の男性の告白を受けた場合はその男性から自身の記憶を消して処理すること』でした」
健斗の背筋に冷たいものが走った。
「処理……? どういうことだ」
影山は健斗の隣に立つ「完璧な彼女」の肩を、親しげに叩いた。
「佐藤様。あなたが今連れている彼女は、確かに美咲様の代わりです。そして……」
影山は、健斗自身の顔をまじまじと見つめた。
「……今のあなたもまた、美咲様が支払った保険料によって『本体』より切り離された、『佐藤様の美咲様に対する気持ち』の具現なのですよ。本体の佐藤様は、あの日、告白をした直後、美咲様への思いを忘れて別の場所で別の人生を送っていらっしゃいます」
健斗は自分の手をじっと見た。つまり、自分は自分ではないということか?
隣に立つ恋人が、健斗と全く同じタイミングで、完璧な角度の首の傾げ方をして微笑んだ。
「健斗さん、そろそろ行きましょうよ」
健斗は、自分がいつから自分ではなかったのか、それを考えるための感情さえ、もう持ち合わせていなかった。
「僕は――どうなるのでしょう」
「大丈夫です。いくら佐藤様が強く美咲様を思っていたとしても、人の気持ちは変わるものです。恋人と幸せな日々を過ごすうちに、あなたも自然に消えることができるでしょう」


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