運動不足を解消しようと思って、僕はスマホに散歩アプリを入れた。
歩数を数えて、歩いた距離でレベルが上がり、バッジがもらえる。ただそれだけの、よくある健康系アプリだ。
最初の数日は楽しかった。
近所の川沿いを歩くと「散歩レベル2」「健康に一歩近づきましたね」と褒めてくれたりして、地味にうれしい。通知も広告も控えめなのがありがたかった。
ところがレベルが10を超えた頃、アプリの様子が少し変わった。
「いつもの道はもう経験値が入りません」
経験値とは?
この散歩アプリに経験値なんて機能、あっただろうか。
さらに「今日のおすすめ散歩ルート」が、近所を回るだけの平坦な道ではなく、隣町の丘陵地まで伸びていた。
ルートの説明には「標高差92m。ちょっとした傾斜でお手軽登山気分!」と書かれている。
息が上がったが、帰宅するとレベルがぐんと上がっていて、アイテムボックスにレアアイテムが届いていた。
「あなたは次の景色を求めています」
求めた覚えはないが、悪い気分ではなかった。
レベル20。
おすすめが車でちょっと行った先の「林道」になっていた。もはや散歩というよりは、ちょっとしたトレッキングだ。
駐車場に車を停め、しばらく歩くと舗装が途切れた。そこから土の匂いが濃くなる。アプリは地図上に、小さな宝箱アイコンをちらつかせた。
「寄り道でボーナスゲット!」
アプリ内の地図が指す方向へ進み、藪を抜けると、その宝箱が派手な効果音とともに開いた。
「木の実×3を獲得!」
子供だましな気はしたが、単純にうれしくなる。
レベル30。
通知が朝の6時入った。
「本日の散歩目標:軽い登山」
「軽い」という言葉が信用できない。それに、登山はもはや散歩ではない。
案内されたのは市の外れの低山で、登山口の看板には「熊注意」と書かれていた。アプリには「熊に注意して進みましょう」とだけ通知が出る。ちょっと雑ではないか。
僕が引き返そうとすると、画面が震え、赤い文字が出た。
「散歩を中断すると、これまでの経験値ポイントが減り、アイテムが没収されます」
なんだろう。このすさまじい抵抗感は……。経験値やアイテムが消えることにとてつもない喪失感がある。僕は結局、山に登った。
頂上に着くと、アプリはご褒美のようにバッジを表示した。
「称号:丘の征服者」
その瞬間、アドレナリンが体中を駆けめぐるのを感じた。
レベル40。
地図の一部が現実とは変わっていた。
普段なら住宅街がある場所に、画面上では「湿地帯」と書いてある。
もしかして現実世界はある程度散歩してしまったので、ちょっとアプリ内の地図をファンタジーマップのようにして、違う場所を散歩しているような雰囲気にしようというのだろうか。
正直、この趣向にはちょっとばかりがっかりした。ずっとアプリをのぞきこんで散歩しているわけではないから、結局景色はいつもの散歩道のままで、あまり意味がないと思ったからだ。
とりあえず、アプリを開いて「湿地帯」に足を踏み出してみる。
するといつもの道の端から薄い霧が滲み出し、いつの間にか足元が泥になっていた。
「あれ?」
たちまち近所の家並みは消え、代わりに背の高い葦がざわざわ揺れている。
「え?」
家に戻ろうと振り返っても、来た道が見えない。葦が大きく揺れているだけだ。
アプリに通知が入る。
「散歩ルートが新ステージのマップに更新されました」
そのとき、水面から小さな影が跳ねた。
魚ではなく、目が赤いカエルみたいなものが、二足で立ってこちらを見ている。
スマホがブルブルっと震えてアプリからの通知を知らせた。
「モンスター:沼跳ね小鬼(レベル12)」
僕はスマホを握りしめたまま固まった。
アプリの画面に、見慣れないボタンが出た。
「回避」「観察」「木の実を投げる」
これは――RPGゲームの戦闘コマンド? どうして散歩アプリに戦闘コマンドがあるんだ。
僕は震える指で「木の実を投げる」を押した。
空中に木の実が三つ現れ、弾丸みたいに飛んで、そいつに当たる。
「撃退成功!」
アプリは軽快な効果音を鳴らした。しかし僕の膝は笑っていた。今のは何なんだ。
それでも、不思議と「帰りたい」とは思わなかった。怖いのに、足が前へ出る。
――とにかく、散歩を続けなくては。
レベル50。
「迷宮を散歩しよう」と、通知が来た。
入口は、湿地帯の奥にぽっかり開いた石の穴だった。
近づくと、スマホの画面が勝手に暗くなり、懐中電灯みたいな円形の光だけが残る。
僕が一歩踏み入れると、現実の光も同じように狭まり、石の壁が近くに迫った。やったことはないがVRのゲームはこんな感じなのかもしれない。
迷宮の中では、歩数が「歩数」ではなく「踏破率」になった。すべて踏破したくなってくる。
ときどきモンスターが出てくるので、それを撃退していった。
モンスターはそんなに強くなく、慣れてくると簡単に倒すことができた。それに便利なアイテムを落としていくことがよくあり、はじめに感じた恐怖感はすっかり薄れていた。
「休憩ポイント」で光る水を飲むと、ここまで歩いてきた疲れが嘘のように吹き飛んだ。
レベル60。
アプリが「パーティ機能を解放しました」と通知した。
RPGゲームのように他人とパーティを組んで助け合いながら散歩を進める機能だと予想はついたが、周囲に散歩しているような人はいない。
この機能は関係ないかと思って、先に進もうと思ったとき、迷宮の壁際で光る小さな存在がふよふよ漂っていた。
「同行精霊(補助タイプ)がパーティに同行」と、通知が届く。
精霊は僕の肩に乗り、歩くスピードを整える助言をくれ、呼吸のタイミングを教えてくれた。
さらに休憩ポイントでヨガをするように指示され、これが健康アプリだったことを久々に思い出す。
その指導はやけに現実的で、気づけば僕は長時間歩いても息が切れない体力、簡単に怪我をしない柔軟性を得ていた。
レベル70。
アプリの通知が、よりストイックな方向に向かい始めた。散歩コースは簡単な迷宮から、強いモンスターやボスのいるダンジョンになり、ヨガの他に自重による筋トレまで指導されるようになった。休憩ポイントには温浴施設やサウナが現れるようになり、ここでも僕は楽しみながら健康で強靭な体を構築していった。
レベル80。
ボス戦を終えた途端にダンジョンの天井が高く抜け、空が見えた。
石畳の先に城壁が立ち上がり、黒い旗がはためいている。
アプリは淡々と表示した。
「次の散歩道:魔王領外周」
魔王――は、さすがに怖い。僕は思わずアプリを削除しようとした。
アイコンを長押しすると、画面に警告が出た。
「ここで散歩をやめますか? すべてのアイテムと経験値が削除され、復元することはできません」
僕は指を止めた。
アプリは追い打ちをかけるように、次の通知を寄こした。
「魔王を倒せばこのマップをクリアできます。レアアイテムが10個手に入り、新たなマップが解放されます」
城壁の向こうから、低い太鼓のような音が響き、地面が揺れている。恐怖を煽るような演出に膝が震える。
しかし、気づけば僕は歩いていた。歩数がいつも通りカウントされていく。
アプリを入れてから、僕は確かに健康で強くなった。
アプリの地図の端に、次の目的地が点滅した。
「魔王城まで、あと12,000歩、気軽に歩いてみよう」
相変わらず「気軽」の基準がバグっている。僕は深呼吸して、靴ひもを結び直した。
そして、スマホを胸ポケットに戻し、城へ続く道へ足を踏み出した。これは健康のための散歩だと言い聞かせながら。
正直なところ、それが一番不思議で、一番怖いことかもしれない。


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