銀嶺114年 4月6日
宇宙船の旅は、地上で暮らす人々が夢見るような煌びやかな冒険ではない。
少なくとも、貨物運搬船『龍宮号』の操縦席に座っている僕にとってはそうだ。
窓の外に広がるのは、どこまでも続く漆黒の闇と、針で突いたような光の粒。
初めて宇宙に出たときは、それなりに感動もしたが、慣れればただの「背景」に過ぎなくなる。
目にするのは無限の星空。以上。それ以外の変化といえば、合成食のメニューがチキン味からポーク味に変わるくらいのものだ。
次の目的地、惑星アルカディアまではあと6日。
自動航行システムが完璧に機能している限り、僕の仕事は計器を眺めて、たまにコーヒーを飲むことくらい。
あまりの退屈さに、AIの「オトヒメ」に無駄話を持ちかけてみたが、「省エネルギーモード設定中。雑談には応じられません」と冷たくあしらわれてしまった。
貨物運搬会社は往々にしてこの設定を解除してくれない。クルーの暇つぶしに、貴重なエネルギーを使うなんてとんでもないと思っているんだろう。
4月7日
今日はおかしなことが起きた。
船外の遮蔽板に、何かが当たる音がしたんだ。
コツン、コツン。
規則正しい、まるで誰かがドアをノックしているような音。
真空の宇宙で音が伝わるはずがない。
これは船体の振動が内壁に伝わっているだけだ、と自分に言い聞かせた。
オトヒメに船体チェックを命じたが、「異常なし」との回答。
「デブリの衝突跡もありません」と彼女は無機質に付け加えた。
幻聴だろうか。
それとも、この退屈が僕の脳を壊し始めたのだろうか。
4月8日
今日もまた、あのノック音が聞こえた。
昨日よりも少しだけ大きく感じられるのは気のせいか。
音の発生源は、貨物室のさらに先、船尾にある旧式のエアロック付近だ。
あそこには、今は使われていない予備の観測ドームがある。
僕は怖くなった。宇宙怪獣の類なら、センサーが反応するはずだ。
まさか幽霊?
この船に幽霊が出るなんて話は聞いたこともない。
目的地まであと4日。
このまま無視して進むこともできたが、好奇心と、何よりこの「退屈」を壊したいという欲求が勝った。
明日、確認に行くことにしよう。
4月9日
申し訳程度のルーティンワークを終わらせてから、レーザーカッターを手に暗い通路を奥へと進んだ。
予備のエアロックで見つけたのは、怪物でも幽霊でもなかった。
それは、船体の隙間にがっちりと挟まった、ボロボロの金属製の「筒」だった。
あまりにも古びていて、表面の塗装は剥げ落ち、かろうじて「Voyager-22」という文字が読み取れた。
それは、人類がまだ太陽系すら満足に出られなかった時代に放たれた、初期の無人探査機の一部だった。
何世紀もの間、宇宙を彷徨い、偶然にもこの船の隙間にひっかかったらしい。
結局、ただのデブリじゃないか。オトヒメは何もないと言っていたのに……。船体に損傷が生じるリスクがなかったからだろう。
ノック音の正体は、この探査機が船体の振動に共鳴して暴れていた音だった。
僕はオトヒメに内緒で、その「落としもの」を船内に回収した。内緒といっても船内カメラで何かしていることぐらいは察しただろう。だが、何しろ省エネルギーモードだ。騒ぎはしないはずだ。
4月10日
手持ち無沙汰に昨日発見した筒をいじっていたら、何の前触れもなく開いた。
中には、デジタルデータではなく、物理的な「モノ」が入っていた。
今日一日、僕はその中身を調べて過ごした。
中に入っていたのは、何枚かの劣化した写真と、一冊の革装のノート。
驚いたことに、それは紙にペンで書かれた本物の日記だった。
「2045年、5月12日。今日、初めて月面基地への移住が決まった。怖いけれど、空の向こうにある景色を見てみたい」
そこには、僕が「退屈だ」と切り捨てた星空への、純粋で、狂おしいほどの憧れが詰まっていた。
月への旅立ちの準備、地球での送別会の様子、旅立ちの日の緊張(本当に少し文字が震えていた)、星空の美しさ、月での暮らしに戸惑う日々の様子、新しい仲間たちとの出会い――まるで今ここで話をしてもらっているかのように、瑞々しく綴られている。
そして一緒に入っていた写真に写っていたのは、地球の青い空と緑の森、そして名前も知らない誰かの笑顔。
ホログラムではない「写真」というものの現物を手にしたのは初めてかもしれない。
彼らにとって、この漆黒の闇は「絶望」ではなく「希望」そのものだったのだ。
1500年近く前の人間が抱いた熱量が、冷え切った僕の心に流れ込んでくるのを感じた。
僕は自分の日記を読み返してみた。「退屈だ」「無限の星空、以上」。読まなきゃよかったと思うほど鬱々としてくる。
それに、なんて恥ずかしいことを書いていたんだろう。彼らが命を懸けて夢見た景色の中に、僕は今、生きているのに。
明日からの日記は、この日記のように、読んだ人がワクワクするような日記にしよう。
4月11日
目的地、アルカディアまであと24時間。
窓の外を見る。そこにあるのは、相変わらずの星空だ。でも、昨日までとは違って見える。
一つ一つの光の点に、誰かの物語があり、誰かの願いが届いているような気がする。
僕は回収した古い日記を、大切に自分の棚にしまった。
これは目的地に着いたら、博物館に届けようと思う。とても貴重なものだし、読み物としても素晴らしい。
一度棚にしまってしまったけれど、もう一度読んでから眠ることにしよう。
4月12日
間もなく着陸態勢に入る。
宇宙船の旅は、確かに孤独で、静かだ。でも、退屈なんて言葉はもう日記には書かない。
目にするのは、かつて地球に住む何億もの人々が夢見た、輝かしい銀河のパレードだ。
着陸まであと数時間。
でも時間が経って気づいたんだ。本当はあの日記を書いた人も退屈に感じたことはたくさんあったんじゃないかなって。ただ書かなかっただけで。
ポイントは、退屈よりもたくさんのおもしろいことを見つけて、それを記録するところにあるんだ。そう、宇宙の旅だけじゃなくて、人生すべてにおいてね。
僕は新しいコーヒーを淹れ、窓の外にある「最高の景色」を眺めながら、今回の旅の日記の最後の一行を書き添えた。
――宇宙は、こんなにも美しい。


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