あれは引っ越して間もない頃でした。新居の洗面所についていた古びた鏡が妙に気になっていて。縁に細かい傷や汚れがあったけれど、それも味があると思ってそのまま使うことにしていたんです。
でもある朝、顔を洗おうと鏡に向かうと、低い声が聞こえたんです。「おい、最近また太ったな。」驚いて振り向いたけど、誰もいない。気のせいかと思いました。でも次の日も、その次の日も、同じ声がするんです。「その顔、寝不足丸出しだぞ」とか、「髪型、どうにかならんのか?」とか、何かしらケチをつけてくる。
最初は怖かったけど、次第に慣れてきて、ある日思い切って聞き返してみたんです。「お前、誰だよ?」って。すると、鏡が一瞬ふぁっとくもって、声がするんです。「俺か?俺はただの鏡だよ。正直に映すのが俺の仕事だからな。」
正直に映すって、そりゃあ言い過ぎだろうと思いましたよ。それからというもの、毎朝鏡と口喧嘩するのが日課になりました。「お前も古くて汚れてるくせに!」とか言い返しても、「俺は古くても磨けばピカピカだが、お前はなぁ……」なんて、ぐうの音も出ない反撃が返ってくる。
でも不思議なことに、その鏡が何か言うたび、少しずつ生活を見直すようになりました。早寝早起きを心がけたり、食事に気を使ったり。鏡が「あれ、ちょっとマシになったじゃないか」って言った日には、なんだか嬉しくなったりして。
けど、ある日を境に鏡は黙りました。それからどれだけ問いかけても返事はなくて、ただの鏡になってしまったんです。
今でもあの鏡は捨てずに使っています。これは悪口を言うところがなくなったってことかなって都合よくとらえてますけど。それでも時々ふと自分を見つめる時間を思い出させてくれる気がしますね。
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