コロナ禍でマスクは社会の必需品になった。
コロナ禍がおさまった現在でも街を歩く何人かが口元を隠し、表情が見えなくなる。そのことを不審に感じる者はいない。皆、慣れてしまっていた。そしてある日、気づいたのだ——街には以前よりも活気が満ちていることに。
「おかしいな……」
俺は駅のホームで電車を待ちながら、違和感を覚えていた。いや、正確には“違和感を感じなくなったこと”に、違和感を覚えていたのだ。
人々はみな、流れるように動いている。すれ違う人の誰もがマスクをしているせいで、個々の顔の違いがわかりにくくなっていた。
ある日、会社の同僚がぽつりと言った。
「最近、新人が増えたよな」
「確かに」
「でもさ……なんか、変じゃないか?」
俺は思い返す。たしかに、新しく入った社員はみんな仕事を覚えるのが早く、応用力も高い。要するにやたらと優秀だった。
ただ、不思議なことに、新人全員が完璧なまでにマスクを外さない。今でもコロナやインフルエンザへの対策、それに以前からある花粉症などの理由からマスクを着用している人は多いので、それに対して疑問を呈する人はいなかった。
昼休み、俺はふと、給湯室で彼らの会話を耳にした。
「いやー、本当にいい時代になったよね!」
「ああ、まさか堂々と会社勤めができるとは思わなかったよ」
「しかも、誰も疑問に思わない。マスクさまさまだね」
俺はそっと覗き込んだ。すると、彼らは楽しそうに話しながら、「いや、でもちょっと窮屈ではあるな」と、マスクをずらす。
——その瞬間、俺は全身が凍りついた。
彼らの口元には、鋭く飛び出した牙、そして耳の近くまで裂けた口が見えた。唇は鱗のようなものに覆われ、見事にマスクで隠れる範囲のみ人間とはまったく異なる容姿をしていたのだ。
「えっ……」
俺が声を漏らした瞬間、彼らは一斉に口をつぐんだ。辺りをうかがうような沈黙が続く。すぐに隠れたから見つからなかったはずだが。
「気のせいか」
彼らはまた談笑を始める。
「まさか人間社会に溶け込めるとはね」
「みんなマスクをしているから、違和感を持たれない。ずっと隠れて生きてきたのがバカみたいだ」
「ほんと。地下は暗いし、寒いし」
「だよなぁ。これなら人間のふりをするのが簡単すぎる」
「でもまぁ、我らの優秀な能力で人間たちの経済もずいぶんとよくなったんじゃないか?」
笑い声が上がる中、俺はそっとその場を離れた。
それからというもの、電車の中でも、カフェでも、スーパーでも、俺はマスクをした人々の“本当の顔”を想像してしまうようになった。
もしかしたら、となりの客も、レジの店員も……本当は人間ではないのではないか?
だが、そんな疑念を持ったところで、俺には確かめる術がない。
マスクをしていても不審がられなくなったこの社会では、マスクを外すことなく生活することが可能だ。それが人間ではない何かにとっても都合がよかったと知っている人はどれくらいいるだろう。
いや、すでに多くの人間だと思われている人々が人間ではないのかもしれない。
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