砂漠の夜は静かだった。風が砂丘をなめる音と、ラクダのかすかな鼻息。カリムは焚き火を見つめながら、遠くから聞こえる不思議な音に耳をすませた。
それは水音だった。
この砂漠に水場はない。旅人なら誰もが知っている。だが、確かに聞こえる。ざぶん、ざぶんと、波が打ち寄せるような音。そして——
誰かが歌っていた。
異国の旋律。男とも女ともつかない、低く響く声。歌詞は理解できないが、妙に心を惹きつける。
翌朝、カリムは隊商の仲間にそのことを話した。
「夜中に水音と歌が聞こえたんだ」
すると、年長の隊商長が顔を曇らせた。
「聞いたのか……あの歌を」
「知ってるのか?」
「ここを通る旅人の中には、時折、その歌を聞く者がいる。だが……気をつけろ。その後、戻らない者がいるんだ」
「戻らない?」
カリムは眉をひそめた。
「ああ。その後、行方がわからなくなるんだ」
気になって仕方がなかった。
——歌の主は誰なのか。なぜ、水音が聞こえるのか。
その夜、カリムは焚き火から離れ、歌の聞こえる方へと歩いてみることにした。この砂漠は子供の頃から行き来している。あまり遠くに行かなければ問題ない。
砂漠を進むほどに、水音は大きくなった。そして目の前に——
湖が広がっていた。
「そ、そんな馬鹿な」
砂漠の真ん中に湖などありえない。しかし実際に眼の前には澄んだ水面が月を映している。そして岸辺には白い衣をまとった人影が佇んでいた。
「誰だ?」
カリムが問いかけると、人影はゆっくりと振り向いた。明るい月光が逆光になり顔は見えない。
「……旅の人」
その声は、確かにカリムが聞いた歌の声だった。
「なぜ、こんな場所に湖が?」
人影が微笑んだ気配がする。
「あなたが求めたからです」
カリムは言葉を失った。
「水がほしいと願いましたね」
確かに砂漠を行く者は常に渇きと戦っている。水を求めない旅人はいない。
「この湖の水はご覧の通りとても澄んでいます。どうぞお飲みになって。――ですが、その前にひとつだけ問います」
「……なんだ?」
「この水が、どこへ連れていくものか知っていますか?」
カリムは息を呑んだ。
「連れていく?」
人影は白い指を水面に差し入れた。すると、水がゆらぎ、そこに異国の街が映った。見たこともない美しい街。水路が張り巡らされ、人々が歌いながら舟を漕いでいる。乾きなどない、豊かな街に見えた。
「この水を飲めば、あなたはこの街へ行けるでしょう」
隊商の仲間たちが言っていた噂話を思い出す。
「それは戻ってこられるのか?」
人影は何も答えなかった。ただ、静かにたたずんでいる。
カリムは水面を見つめた。渇きが喉を締め付ける。しかし、一歩踏み出せば、この世界から消える気がした。
カリムは唾をのみ、そっと後ずさった。
「俺は……まだ、ここにいる」
人影は「そう」と、穏やかに頷き、湖はさらさらと砂漠の砂の中に消えた。
翌朝、隊商の仲間が砂漠の真ん中で呆然とたたずむカリムを見つけ駆け寄った。彼はぼんやりと砂漠を見つめていた。
湖はもうどこにもない。
#098 遠い砂漠の湖の歌

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