「屋上は海の底だよ」
彼女がそう言ったとき、僕は初めて自分の足元に意識を向けた。空に一番近いはずの場所で、足下に波打つ海の気配を感じるというのは、どこか奇妙な感じがした。
僕の住むマンションには、奇妙な噂がある。『深夜0時を過ぎた頃、屋上に行くと海の匂いがする』というのだ。内陸の街であるここに、海の気配などあるはずもないのに。
僕は、毎日夜が深くなると妙にそわそわする。
ある日とうとう、好奇心に負けてその屋上へ向かった。
深夜の階段は異様に静かで、自分の足音だけが心臓と同じリズムで響いた。
ドアを押し開けると、強い潮風が僕を包み込んだ。鼻腔をつく強烈な塩気に思わずむせそうになり、足を踏み出した途端、ここがマンションの屋上だということを忘れてしまった。
「きみ、気をつけないと落ちちゃうよ」
突然背後から聞こえた少女の声に、僕ははっと振り返った。月明かりの中に浮かぶように佇む、真っ白なワンピースの少女。このマンションでは見たことがない顔だ。
「どこから来たの?」
僕が尋ねると少女は微笑んで答えた。
「ずっとここにいるよ。誰も気づかなかっただけ」
その笑顔は透明でどこか儚げだった。
屋上を歩き回ると足元が柔らかく、水に包まれているような感覚になる。
「本当はここ、ずっと昔から海の底なんだ」
彼女はまた不思議なことを言った。
「ここが? まさか」
「みんな見ようとしないだけ。忘れてしまったの」
少女は遠くを見つめて言った。
「見たくないものを忘れるのは、人間の得意技だよ」
確かに僕は毎日忙しさに追われていた。見上げる空も、足元も見ることがなく、世界が与える不思議さから目を背けていた。
「きみはどうしてここにいるの?」
少女は逆に尋ねてきた。
「噂を確かめたくて」
「それだけ?」
「わからない。何かを探してたのかも」
彼女は少し寂しげに笑った。
「探してるものはいつも、思わぬ場所に隠れてる」
その瞬間、足元に水が触れる感触が強くなった。驚いて下を向くと、本当に僕らの足元には水面が広がり、小さな魚の群れが泳いでいた。
僕は驚きのあまり、言葉を失った。
「ね、屋上は海の底だったでしょう?」
少女が楽しそうに笑う。でもその瞳には、悲しみのような色が揺れていた。
夜が明けようとしていた。東の空が徐々に色づき、潮の香りが次第に薄れていく。少女の姿もまた、ゆっくりと透け始めた。
「また会える?」
僕は焦って尋ねる。
「あなたが本当に望めば、いつでも」
彼女は優しく手を振りながら、水の中に溶けるように消えた。
気づけば足元は乾いたコンクリートに戻っていた。いつものマンションの屋上だった。
僕は夜明けの空を見上げたまま、静かに息をついた。きっとまたこの場所に来るだろう。もう一度あの海に潜るために。
「屋上は海の底だよ」
少女の声だけが、いつまでも耳の奥で響いていた。
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