古びた食堂のカウンターに座り、俺は旬の焼き魚定食を前にした。魚の種類が季節によって変わる人気の定食だ。脂ののった焼き魚が湯気を立て、芳ばしい香りを漂わせている。箸を持ち、ふっくらしたその身をほぐそうとした、その瞬間だった。
魚の体が微かに震えたかと思うと、次の瞬間、銀色の光をまといながら宙へと舞い上がった。
「……え?」
俺は箸を持ったまま固まった。魚はゆっくりと店の天井近くまで上昇すると、まるで水の中を泳ぐように、滑らかな動きで空間を漂い始めた。
「お、おい……?」
恐る恐る手を伸ばそうとしたが、魚はまるで俺の動きを察知したかのようにスッと身を翻し、スルリと逃げた。まるで生き返ったかのように、悠々と宙を泳いでいる。
他の客たちも気づいたのか、ポカンと口を開けて見上げていた。店主のじいさんも驚いている。
「こんなの、長いこと店をやってるが初めて見るぞ……」
呟く店主の声もどこか上の空だった。魚はゆったりとした動きで店内を一周すると、俺の頭上を通り過ぎ、ふわりとガラス窓の前に来た。
すると、突然、店の扉がギィィと軋んで開いた。
何の前触れもなく吹き込んだ風が、魚をすくい上げるように外へと運び出した。銀色の光をまとったまま、魚はふわりと夜の空へと溶け込んでいく。
俺は思わず店を飛び出した。
魚は、まるで本当に海の中を泳いでいるように、星の瞬く夜空を漂っていた。ゆらり、ゆらりと揺れながら、次第に高度を上げ、やがて点のように小さくなり、そして――消えた。
店の前に立ち尽くす俺の肩を叩いた。
「変な魚に当たっちまったな。焼き直すよ」
「……あれは、何だったんですかね」
「さあな。でも、魚ってのは泳ぐもんだ。そういうやつだったんだろう」
店主は諦めたようにそう言うと店の中へ戻っていった。
俺はしばらく夜空を見上げていたが、結局、何もわからないまま、その場を後にした。
翌朝、俺はふと思い立って市場へ向かった。いつも行く鮮魚店の店先で、見慣れない銀色の魚が氷の上に並んでいた。それは昨夜、宙を泳いでいた魚と、どこか似ていた。
不思議な胸騒ぎを覚えながら、俺は店主に尋ねた。
「この魚、なんて名前ですか?」
店主はにやりと笑った。
「さあな。知らん」
「知らない?」
鮮魚店の店員が魚を知らないとどういうことか。
「不思議なことに夜空でとれる魚だ。俺を含めて、これを知っているやつなんていないだろうな」
俺はもう一度、魚をじっと見つめた。
もしかして、焼かれることで別の魚になり、宙を泳ぎだすという魚がいるのだろうか。
「あんまり深く考えなさんな」
鮮魚店の店員はからからと笑っている。
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