#184 あの人の話

ちいさな物語

「なあ、覚えてるか? ほら、あの人。あの喫茶店にいた、なんてことないけど、不思議と気になる感じの人」
 
そう言うと、この町の年の近いやつは、大抵みんな、少し笑ってうなずく。名前を出さなくても通じるんだ。あの人は、そういう人だった。
 
初めて会ったのは、もう何十年も前だ。まだ俺が二十代で、職場では新人扱い。自信もなくて、少し沈んだ顔して、それでも大人ぶって古びた喫茶店に通ってたんだ。そのカウンターの奥に、彼女はいた。
 
ウエートレスというより、どこか女給って言葉が似合う人だった。忙しくない時は、カウンターの端に腰かけて、誰かの話し相手になってた。
 
もちろん、キャバレーとかそういう店じゃない。普通の、昔ながらの喫茶店さ。
 
にぎわってはいたけど、座れないほど混んでるわけでもなく、常連がぽつぽつコーヒーを飲みに入って、客が途切れないという感じかな。そんな穏やかな空気の中に、彼女は自然に溶け込んでいた。
 
どこにでもいそうなのに、目が合うとドキッとする。不思議な人だった。笑うときの顔は思い出せるんだけど、笑い声は思い出せない。大きな口を開けて笑うような人じゃない。すごく自然に笑うんだ。
 
話した内容もあまり覚えていない。だけど、話している時間が心地よかったのは覚えてる。俺のくだらない愚痴でもちゃんと聞いてくれるし、たまに自分のこともぽつりと話してくれる。
 
失敗したときの話とか、別れた男の話とか。重くないんだ。笑い話みたいに話すから、聞いてる方も安心できる。自分も失敗して大丈夫なんだって、そんなふうに思わせてくれる人だった。
 
気を遣ってないようで、でもちゃんと寄り添ってくれる。黙るタイミングが絶妙で、こっちの気持ちを先回りして言葉をくれる。でも、自分の考えはしっかり持ってる。そういう人だった。
 
ある日、仕事でうまくいかなくて、黙りこんでカウンターに座ってたことがある。彼女はちらりと俺を見て、でもすぐ他の客と世間話をして笑っていた。
 
拗ねたように「察してくれよ」って態度をとった俺に、彼女は静かに言ったんだ。
 
「私はね、ちゃんと伝えてもらった方が、うれしいの。なにか話したいこと、あるのね?」
 
責めるような言い方じゃなかった。むしろ、あったかくて、逃げ場のない優しさだった。
 
その一言で、自分がいかに甘えていたか、ちゃんと伝えようとしていなかったか、気づいた。
 
やがて、仕事が忙しくなり、店に行けなくなって、彼女にも会わなくなった。店自体はまだあったけど、気づいたらカウンターの奥に彼女の姿はなかったんだ。数年後に偶然、再会することになったわけなんだけど、またその話は別のときに。
 
とにかく思い出すと、あの人こそ強さってものを持ってたんだと思う。優しさや自立心、言葉の温度。どれも派手じゃないけど、ちゃんと伝わる。
 
服でも、化粧でもなくて、目の奥に強さがある。そういう人って、なかなかいない。あえて古い言葉でいうなら「いい女」ってやつさ。
 
今でもときどき、その古い喫茶店に立ち寄ることがある。カウンターに座って、コーヒーを飲みながら、ふと思い出すんだよな。
 
……ん? なんだ、その顔は?
 
そういえば、お前がお母さんに似て本当によかったと最近思っているよ。
 
あ、そうか、お前にはまだ話してなかったっけ。今までの話はお前の母さんの話さ。

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