「さっきもここ通らなかったか?」
時計は23時を回っていた。繁忙期の残業を終え、フロアの電気を落として帰ろうとしたとき、ふと気まぐれで非常階段の方へ回る。
しかし階段の扉は開かなかった。
不審に思いながら廊下を戻ると、見慣れた観葉植物と給湯室がまた目の前に現れた。
「おや?」
照明はぼんやりとついている。非常灯だろうか。静まり返ったオフィスの中、彼は自分の足音が異常に大きく響くのに気づいた。
「まあ、方向間違えただけだろう」
毎日勤務している会社でそんなことはなさそうなものだが、疲れているから仕方ない。そう言い聞かせながら再び歩く。
しかし左に曲がっても右に曲がっても、同じ場所に戻ってくる。壁にかけられたポスターも、灰色のロッカーの配置も、すべてコピーのように繰り返されていた。
「どうなっているんだ?」
会議室と書かれた小さな木の扉。その取っ手に手をかけると、微かに「カチッ」という音とともに鍵がかかっている感触が返ってきた。ほかのドアはすべて開けられるのに、会議室だけ閉ざされていた。
「妙だな」
会議室の中を覗こうとすると、ガラスの奥には深い闇が広がっていて、まったく見えない。
やがて彼は、フロアの端まで歩いても、ループしてしまうことに気づいた。
携帯を取り出してみるが、電波は圏外、時間表示は23:48で止まったまま。再起動を試みるも、画面は黒く沈黙を守る。
「夢か?」
頬をつねっても、ただ痛いだけだった。
歩く。戻る。また歩く。途中にある自販機で缶コーヒーを買おうとしてみるが、釣銭口にコインが戻ってきてしまう。不思議なことに、もともと釣銭口には十円玉が4枚残されていた。
何周目か、何十周目か。
あるとき彼は、閉ざされたドアの奥から、微かに「ガリ…ガリ…」という音を聞いた。
誰かが、内側からドアを爪で引っかいているような音。
息を呑んで立ち止まり、耳を当てる。何も聞こえない。
だが歩き去ろうとすると、また聞こえる。「ガリ…ガリ…ガリ……」と、まるで注意を引こうとしているかのように。
恐怖が背中を這い上がる感覚に耐えながら、彼は再びドアノブを握る。やはり鍵がかかっている。だが不思議なことにドアノブが動いた。
躊躇いながら扉を押す。少しずつ、重たい音を立てて、ドアが開く。
その先にあったのは、会議室ではなく――また同じ廊下だった。
同じ観葉植物、同じポスター、同じ給湯室。
ただ一点だけ違っていたのは、廊下の奥に彼自身が立っていたことだ。
まったく同じスーツ、まったく同じ顔。彼はこっちを見ている。驚いたような、怖がっているような目で。
「これは……どういうことだ?」
一歩踏み出すと、目の前の彼も同時に一歩後ずさる。
左右を確認する。鏡ではない。鏡にしては角度が合わないし、光の反射もない。
試しに廊下の端へと歩き出すと、向こうの“彼”も同じように動き出す。だが、動作が遅れていく。0.5秒、1秒、2秒……その“ズレ”が徐々に開いていくのだ。
彼は突然走り出した。
次の瞬間、廊下の照明が一斉に落ちた。緑色の非常灯だけがぼうっと光り、足音がこちらへ向かってくる。
彼は逃げるようにドアを閉め、ノブを回して鍵をかけた。心臓が激しく鳴っていた。
それからまた、彼は廊下を歩き続けた。
戻っても、進んでも、同じ廊下。時間は23:48から動かない。携帯は暗いまま。自販機の釣銭口には十円玉が四枚。
そして会議室のドアはまた閉ざされた。
彼はいまも歩いている。
もう、何度目のループなのかもわからないまま。
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