2025-10

ちいさな物語

#498 天国について

「なあ、俺にとっての天国ってなんだと思う?」朝の喫茶店で、唐突に松田が言った。俺と坂口はコーヒーを飲みかけたまま顔を見合わせた。「いや、知らんけど」「そういうのは自分で考えるもんじゃないの?」松田は深刻な顔でうなずいた。「そうだな。でも俺、...
ちいさな物語

#497 春と秋の旅

ある年の冬、空がやけに静かで、雪の粒が音もなく降りつづいていた。春の神と秋の神は、久しぶりに顔を合わせていた。春は淡い桃色の衣をまとい、いつもどこか浮かれている。秋は深い金茶の外套を羽織り、落ち着いた眼をしていた。春が言った。「ねえ、秋。ぼ...
ちいさな物語

#496 灰の夜

あれは、北の街道を歩いていたときのことだった。霧が濃く、馬の蹄の音が霞の中に吸い込まれていくような夜だった。宿を探しているうちに道を外れ、気づけば森の中にいた。ふと視界の奥に明かりが見えた。揺らめく何かの光。あんなところに何かあっただろうか...
ちいさな物語

#495 ホワイト企業に囚われて

父の借金のかたに連れていかれたのは、雨の夜のことだった。黒いスーツの男たちが玄関を叩く。怯える私の手を強引に引き、「お嬢さん、こちらへ」と有無を言わせぬ口調で口調で言った。そのとき父は居間の隅で震えていた。「すまない……お前まで巻き込むなん...
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#494 しりとりの家

町のはずれ、杉並木の奥に古い屋敷がある。窓はどこも板で打ちつけられていて、風が吹くたび、ぎいぎいと鳴っていた。その屋敷は小学生のあいだで噂になっていた。「中の間取り、しりとりになってるんだってさ」「しりとり?」「そう。変な名前の部屋がしりと...
ちいさな物語

#493 山の神の約束

この里には『白霧の峰』という山があってな、そこは神さまの棲む山ゆえ、決して鉄を持ち込んではならん、という掟があったんじゃ。けれどその年は雪が深うて、獲物もおらず、里の者は飢えておった。与作の妻は腹に子を宿しておったし、与作もとうとう我慢がな...
ちいさな物語

#492 森の熊田さん

ニュースキャスターが真顔で言った。「本日、午後二時ごろ、紳士風の熊が市内を歩いているとの情報が入りました」紳士風の熊。その言葉だけで違和感が爆発する。画面には熊。スーツにネクタイ。手にはブリーフケース。記者が近づく。「お仕事中ですか?」熊は...
ちいさな物語

#491 喫茶店のノート

あのノートのこと、話したっけ。あれは、三年前の秋のことだった。仕事帰りにたまに寄っていた古い喫茶店があってね。「カフェ・コトリ」って名前だったんだけど、看板の文字はかすれて、扉のベルも半分壊れてるような、こういっちゃなんだけど、うらびれたよ...
SF

#490 冬の花火と宇宙人八割時代

地球がかなり宇宙勢力に負け始めていると気づいたのは、確か三年前の冬頃だったと思う。ニュースで「すでに世界人口の八割が宇宙人でした」と発表されたのがきっかけだ。アナウンサーが笑顔で言っていた。まるで「明日は晴れるでしょう」と同じテンションで。...
ちいさな物語

#489 全力バカ選手権

ことの発端は、昼休みのどうでもいい雑談だった。「人生で一番、くだらないことに本気を出したって経験ある?」営業の中村が唐突にそう言ったのだ。みんなポカンとしていたが、彼は真顔で続けた。「昨日、家のティッシュ箱の残りを何秒で引ききれるか、本気で...