禁酒を決めたのは昨日のことだ。だが、今日の晩酌だけは例外にしてやろうと、最後の一杯を注いだ。最後を飾るのにふさわしい酒を昼に準備しておいたのだ。やはり禁酒にも儀式めいた何かが必要だろうと突然思いついたのだ。だが、この一杯で今度こそ終わり。明日から新しい自分になる……そう思いながら、お気に入りのソファに沈み込む。
グラスを置き、深く息をついた。次に手を伸ばした時、何かがおかしいと気づいた。酒が減っているのだ。飲んだ記憶はない。それでも、液面は明らかに低くなっている。
部屋を見回す。もちろん誰もいない。窓も閉まっている。蒸発するには時間が短すぎる。それとも、気づかないうちに口にしたのだろうか。そんなはずはない。確かに自分はグラスに触れていない。
もう一度グラスを置き、注意深く目を凝らす。時間が止まったような静けさの中、ふと視界の端で何かが揺れた。テーブルの影から細い指が現れたのだ。半透明なその指は、グラスの縁に触れると、液体をなめるように吸い取った。
「誰だ!」声をあげ、テーブルの下を見ても誰もいない。半透明な指先だけが浮いている。そして淡々とグラスを空にしていく。最後の一滴を吸い取った瞬間、指はすうっと床に吸い込まれるように消えた。
呆然とする僕の手元にグラスが残っている。空になったはずのそれには、新たにうまそうな酒でなみなみと満たされていた。金色に輝く液体は知らない銘柄だ。馥郁たる香りに眩暈がする。
「さあ、どうする?」と囁く声が耳元で響く。誰の声か分からない。手が震える。一杯だけと決めたはずだ。いや、その一杯は全部飲んでいない。しかしこんなこと、起こるはずがないじゃないか。酔って自分で飲んだに違いない。これ以上飲んだらダメだ。
だが、気づくとその酒を口に運んでいた。芳醇な香り、深い甘さ、わずかに顔を見せる程度の苦味、酔いを超えた何かが僕を支配していく。味わったことのない美酒である。視界が歪み、気を失うように沈み込んだ。
目覚めた時、テーブルには空になったグラスだけが置いてあった。夢だったかと、洗面台に立つと、鏡の中の僕がにやにやと笑っていた。永遠に逃れられない欲望に気づいた瞬間だった。
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