大学卒業を控え、入社式までの空白期間は、恐ろしいほどに平坦だった。
友人たちは卒業旅行だ、最後の合コンだと騒いでいたが、俺の手元には使い道のない時間だけが、澱(おり)のように溜まっていた。
あまりの暇さに耐えかねて、地元の友人である佐藤に連絡を取ったのは、そんな三月の昼下がりのことだ。
「暇すぎて死にそう? だったら、駅の裏にある自販機で『役割』でも買ってみろよ」
佐藤は電話越しに、冗談とも本気ともつかない声でそう言った。
「役割? なんだそれ?」
「知らないのか。売ってるんだよ、役割。そんなに高くないと思うぞ」
日用品か何かのように言う。いまいち意味がわからない。
翌日、佐藤の説明通りに行ってみると、駅の北口の古い駐輪場の横にその自販機はあった。
塗装が剥げかけた古めかしい筐体(きょうたい)には、飲料の代わりに奇妙なボタンが並んでいる。
「今日の役割:500円」
「今週の役割:3,000円」
「今月の役割:10,000円」
「今年の役割:100,000円」
見本がないので、まるでガチャのようだ。ラインナップも何かおかしい。俺は半信半疑で500円玉を放り込んだ。
一番手軽な「今日の役割」のボタンを押すと、ガタン、と重々しい音を立てて、銀色のアルミ缶が転がり落ちてきた。アルミ缶といっても、飲み物の缶とは明らかに違う。
中には、真空パックされた衣類と、一枚の指示書が入っていた。
「本日の役割:繁華街の風景の一部(不良スタイル)」
さらっと書かれている(不良スタイル)って一体何だ?
指示書には、細かなルールが記されていた。
支給されたスカジャンとダボついたパンツを着用し、指定の繁華街を17時まで歩き回り、繁華街の雑然とした雰囲気を彩ってください。
ただし、歩き煙草、飲酒、喧嘩、ポイ捨て、その他あらゆる条例違反行為は厳禁。
確かに不良っぽい衣装だが……。不良が繁華街を彩っていたとは知らなかった。
あくまで「それっぽい雰囲気」を醸し出し、風景に深みを与えるのが仕事だという。本物の不良のようにハメを外した行動はしないでくれということだろう。
昼休憩は12時から13時まで。
「煙草とかの小道具なしに不良っぽく見せるなんて、結構ハードルが高いな……」
俺は駅の多目的トイレで着替えを済ませ、鏡を見た。何か足らないような気がする。
缶を探ると、中には試供品のようなパウチに入っている化粧品が入っていた。髪に付けるワックスまで同梱されている。
やけに丁寧な説明書に従ってメイクをすると、顔色が悪くなり、眉が釣り上がった。
どこからどう見ても、何かに不満を持っていそうな若者だ。肩がぶつかっただけで、ケンカを始めそうである。
繁華街に出ると、世界の見え方が少し変わった。
普段の俺なら、周囲の目線を気にして猫背になるところだが、今は違う。
肩を揺らし、少しだけ顎を引き、道ゆく人々を射抜くような視線で眺める。
自分の性格的に恐縮してしまう場面でも、「これが役割なんだから」と横柄な人柄を演じられる。
繁華街っぽい雰囲気に寄与するために、ただそこに「不穏な空気」として存在する。
初めはよかったが、時間が経つと迷う場面も出てきた。
些細な行動が、この「不良」という枠組みを壊してしまいそうで躊躇われた。
スマホは気になるが、不良はちまちまスマホなんて触らないかもしれない。いや、くだらないゲームをしながら舌打ちしたり、頻繁に仲間に連絡をとったりするものかも?
のどか渇いたが、不良はカフェラテなんて飲みそうにない。じゃあ、不良って何を飲むんだろう。お酒はルールに触れそうで怖いし……。
ちょっと座りたいが、ベンチなんて探さずに、その場でうんこ座りすべきか? いや、コンビニの前で仲間と一緒に座り込むのがそれっぽい気がするのだが、仲間はいない。
ふと、横断歩道で信号待ちをしているとき、隣に立つサラリーマンに目が止まった。
あまりにもサラリーマンすぎる。
完璧に糊のきいたシャツ、一分の隙もないネクタイ、そして疲れ切っているが、絶妙に誠実そうな顔つき。
ふと彼のビジネス向けのバックパックを見ると、少しだけ俺が持っているのと同じ銀色のアルミ缶が覗いている。
まさか、彼も「役割」を買ったのか?
そう思うと、周囲の景色が急に書き割り(舞台装置)のように見えてきた。
12時になった。指示通り、俺は近くのファミリーレストランに入った。
不良はファミリーレストランに……入ってもおかしくはないか。どうも「役割」を考えすぎてしまう。
驚いたことに、店内には驚くほどそれっぽい服装の人たちでいっぱいだった。もしかして、この店は「役割」を持った人の御用達なのか。
12時ちょうど、客たちは一様に無言で箸を動かしている。
ここでは役を演じず、純粋に「休憩」しているのだろう。一般のお客さんもいるようだが、自分が「役割」をやっているせいか、なんとなく違いがわかった。
俺は一旦、役割を忘れて、自分が食べたいと思った「唐揚げ定食」を堪能して、店を出た。
俺は「不良」として、わざと少し乱暴にゴミ箱を蹴るふりをした。
しかし、その瞬間に通りかかった老婦人は、まるでそれが最初から台本にあったかのように、完璧なタイミングで「まあ」と口に手を当てて驚いてみせた。間違いなくこの人も「役割」の人だ。
俺という「不良」がそこにいることで、この街のパズルが完成している。
17時。俺の「役割」は終了した。
駅のトイレに戻り、スカジャンを脱いで自分のパーカーに着替える。
不思議なことに、服を脱いだ瞬間、街の喧騒がふっと遠のいたような気がした。
あの銀色の缶をゴミ箱に捨てようとして、俺は思いとどまった。缶の底には、小さな文字でこう印字されていた。
「ありがとうございました」
自販機の前に戻ると、先ほどまで点灯していた「今年の役割」のボタンが、売り切れの赤いランプを灯していた。
誰かが、10万円を払って「一年間の自分」を買ったようだ。
これから就職する会社で、俺が演じることになる「新入社員」という役。それは、自販機で買った役割と何が違うのだろう。
俺は自分の手を見た。そこには、スカジャンの安っぽいポリエステルの感触が、まだ薄く残っていた。
駅のホームに立つと、夕日に照らされた人々が、それぞれの「役割」を演じながら行き交っていた。
何もお金を払って買うほどのものでもないのか。
みんな役割は勝手に負っている。ただ、自分とは違う役割を体験したいとき、あの自販機は人を惹きつけるのかもしれない。
電車のドアが閉まる。俺はそのドアガラスに映った自分とじっと見つめ合った。


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