#588 サービスタイム

ちいさな物語

うちの近所のスーパーは、夕方六時を過ぎると空気が変わる。

惣菜コーナー周辺を中心に客の様子が不自然になるのだ。誰もが興味なさそうな顔をしながら、何度も同じ場所をうろうろし始める。

全員、似たような軌道を描きながら、回遊魚のごとく店内を回り始める。

焼き鳥の前を通り過ぎては何かを思い出したかのような顔で戻り、唐揚げのパックを手に取っては献立を考え込んでいるかのような表情を浮かべる。

その場にいる全員が、ちょっと買うものに迷っているだけで、他にここにいる理由なんてないですよ――という顔をしている。

私もそのひとりだった。

メンチカツ弁当を横目で見つつ、牛乳売り場まで行っては戻り、豆腐の賞味期限を必要以上に確認し、また惣菜売り場に戻った。

もうおわかりでしょう。要するにみんな値引きシールが貼られるのを待っている。

だが、あからさまに値引き待ちだと思われるのは、みっともないので、誰もが興味がないようなふりをしている。シールが貼られたら「あら、値引きされるなんて、全然知らなかった!」という顔で買っていくつもりなのだ。

そのときだった。

店内のありふれたBGMにケンカを売るように、ぬるっと現れた男がいる。

名物店員、樽見さんである。

今日は樽見さんか。客の誰もが渋い顔をした――ような気がしたが、気のせいかもしれない。何しろみんな興味がなさそうな顔をしているのだから。

樽見さんはマジシャンのような白手袋をして、無駄に軽やかなターンをキメて、かかとを鳴らしながら店内を闊歩した。

右手にハンドラベラー。左手は、どういう意味があるのか、うねうねさせている。出てきた時点であやしい。

そして、樽見さんが惣菜コーナーに足を踏み入れた。

ざわ……と客たちの間にさざなみのような気配が広がる。

だが全員、顔だけは平静を装っている。変わった店員が出てきたから、ちょっとそっちを見たけど、それが何か? という顔である。

私は焼きそばの原材料を真剣に読んでいるふりをした。「pH調整剤が入っているのかぁ」と、無意味につぶやく。もちろん本気で気にしているわけではない。

隣のサラリーマンは、春雨サラダを発火しそうな勢いで凝視している。だが、意識が樽見さんへビタッと張りついているのは想像に難くない。

樽見さんは、まずコロッケの前で止まった。

来る。

誰もがそう思った。

ハンドラベラーを持つ右手があがる。

来たッ。

貼るか? 貼るのか?

近くにいた客たちがやや前傾姿勢になる。いつでもそちらに向かえる角度だ。さながらスタートラインで合図を待つランナーのようだ。

よし、貼る――と思わせて、くるりとハンドラベラーを回転させる。

貼らんのかい。

客たちがガクッと膝を折る。

貼らないどころか、その場で派手なターンを披露し、ガンマンのようにハンドラベラーをくるくると回す。さながら西部劇のワンシーン……。

なんなんだ。

売り場に小さなどよめきが走った。もはや冷静さを装うことを投げ出した客もいる。

奥で見ていたおばあさんが、思わず「うまいもんだねえ」と言った。

たしかにうまくはあるが、そんなこと誰も求めていない。早く値引きシールを貼ってくれ。

樽見さんは次に唐揚げへ向かった。

今度こそ、来たッ!

ハンドラベラーを構える。

客たちの視線が一斉に吸い寄せられる。

しかし彼は、そこでなぜか膝を落とし、低い姿勢のまま横移動を開始し、ハンドラベラーを投げ出して、両手をついた。

ブレイクダンスである。

完全にブレイクダンスである。しかもプロっぽい。

しかも途中でなぜか歌いだした。

「まーだまだ、まだだよお〜♪」

信じられないことに自作の「客煽りソング」らしい。しかも無駄に美声だ。

若い母親が吹き出しそうになり、あわてて口を押さえた。

その横で、ネクタイの男性が眉間にしわを寄せ、「ふざけんなよ」と小声でつぶやいた。

すると樽見さん、聞こえていたのか、ふっとその男性の前に来て、やさしく言った。

「焦らないで、楽しんで」

男性は値引きシール待ちが周囲に知られてしまい赤面した。そして、何かを言い返そうとして言葉が出なかったのか、もごもご言いながら定価の刺身をつかんでレジへと去っていく。

ひとり脱落。

すると残った者たちの顔に、不思議な連帯感が生まれた。これは奪い合いの戦いではない。試練なのだ、と。

樽見さんはその後も絶好調だった。

ハンバーグ弁当の前でムーンウォーク、天ぷら盛り合わせの前で海老反り、寿司の前でひとりオペラ。

もう意味がわからない。

意味はわからないが、見ているうちに少し楽しくなってくるから腹が立つ。

最初は苛立っていた客も、だんだん反応が分かれていった。

腕組みして無言で耐える人、笑いをこらえきれず肩を震わせる人、完全にショーとして楽しみ、「次はおにぎりの方だ!」と予想し、先回りする人など。

やがて、短気な人から順番に売り場を離れていった。

「もういい、コンビニで買う!」

「今日は外食だ!」

立ち去っていく客の中には、「とりあえず見世物には感心している」という姿勢を表明するつもりなのか、投げ銭をしていく人もいた。

しかし樽見さんは一切ぶれない。去る背中に一礼し、静かに次へ向かう。客を煽るだけ煽って悪びれもしない。

ただ、待てる者だけが残る。

そしてついに、その時が来た。樽見さんは売り場の中央に立ち、ハンドラベラーを高く掲げた。

一拍。

二拍。

誰もしゃべらない。

ここで貼らなかったらさすがに暴動だ。

だが樽見さんは、すっと身をひるがえし、コロッケ、唐揚げ、焼き魚、弁当へ、流れるような速さで次々と値引きシールを貼っていく。

速い。

このスピードだけで芸になるほどの速さ。今までのもったいぶりは何だったのかと思うほどだ。

ぱしっ、ぱしっ、ぱしっ、と小気味いい音が売り場に響く。

呆気にとられていた客たちが、ハッと事態に気づいて慌てて売り場に駆け寄った。もはや冷静さを装っていたことすら忘れている。

私はメンチカツ弁当とおつまみセットを確保した。

サラリーマンは唐揚げと餃子を抱えた。

おばあさんはサンドイッチをカゴに入れ、母親は子どもに「ポテトサラダにしようか」と微笑みかける。

そこにいた全員の顔が、妙に晴れやかだった。

ただ安く買えるからじゃない。

待たされたぶん、みんなで試練を乗り越えたような連帯感と、大きな達成感を味わっていた。最後までステージを見届けた観客だけが得られる報酬だ。

会計のあと、出口で樽見さんとすれ違った。

私は思わず言った。

「今日、すごかったです」

すると樽見さんはあのパフォーマンスからは想像できないほど静かな声で言った。

「はい。ステーキ肉まで半額になりましたからね。今日のお客様はかなりお得にお買い物できました」

いや、値引きの話じゃないですけど。

しかし、すでに樽見さんはバックヤードへと姿を消していた。

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