#599 ドッペルゲンガーの正体

ちいさな物語

深夜二時のコインランドリーは、世界から切り離されたカプセルのようだった。いつもならこんな夜中にコインランドリーなんて来ない。

思いがけない残業のあげく、最近洗濯をさぼっていたせいで明日着ていくシャツがなくなったのだ。

眠気と戦いながら、回転する洗濯機を眺めていた私の隣に誰かが座った。

ふと横を見ると、そこには私がいた。見間違いではない。

くせ毛の感じ、右の頬にある小さなあざ、三年前の誕生日に母にもらった少し色あせたパーカーまで同じだった。

ドッペルゲンガーに出会うと死ぬ、という古い言い伝えが脳裏をよぎり、私は背筋を凍らせた。

しかし、もう一人の私は、ひどく面倒くさそうにコンビニのエビフライ弁当を食べていた。

「ああ、しまった。最悪だ。こんな時間に出てくると思わなかった」

偽物の私は、割り箸を口に咥えたまま、私の顔を見てため息をついた。

その声まで、録音した自分の声とそっくりで、私は言葉を失った。

「きみは……その、誰?」

絞り出すように尋ねると、まったく同じ顔をした私は米粒を飲み込んでから首を振った。

「人間の言葉でなんと言うかわからないな。強いて言うなら『天使』とか、そんな感じかな。『派遣社員』という方が現場のイメージに近いのかな」

天使? 派遣社員? 全然共通点が見えない。

彼はただ、深夜のコインランドリーでコンビニ弁当を貪る自分にしか見えない。

「えーっと、天使だとして、それがどうして私の姿をしているんだ?」

私が問い詰めると、彼は箸を置いて、心底嫌そうに頭を掻いた。

「あのね、こっちも仕事なんだよ。この世界の観測とか、調整とか。でも、ゼロから新しい人間の姿を作り出すのって、めちゃくちゃ面倒なんだ」

彼は空中に、透明な書類のようなものを映し出した。

「見てよ、これ。新規アバター作成申請書。添付書類を除いても、必要事項が400項目もある。そんなのいちいちやってられないだろ?その辺、歩いていたヤツをコピーしちゃえば一発解決だ」

「えっとぉ……面倒くさくて、私の姿を勝手に?」

「そうそう。既製品を借りるだけなら、申請いらないから。きみ、なかなか良いよ。平凡で目立たないし、世間に馴染みやすい」

全然ほめられている気がしない。いや、ほめてないんだろう。最初から。

ドッペルゲンガーの正体が、まさか天界の役人の手抜きによる「無断転載」だったなんて、誰が信じるだろうか。

「でも、自分と同じ姿をした人を見たら死ぬっていう噂があるんだけど。それ、知ってる?」

私の問いに、彼は一瞬だけ真面目な顔をして、また大きなため息をついた。

「ああ、あり得るだろうね。コピー元とコピーが同時に存在してると、上層部にズボラがバレちゃうから。そりゃ、消しに行くよねぇ。真面目なヤツほどそうするよ」

消す……?

彼は弁当の醤油差しを弄りながら続けた。

「証拠隠滅のために、オリジナルの人間をちょっとだけ早めに『退場』させる。それがいわゆる、きみたちの言うドッペルゲンガーの呪いの正体だな」

知っていたのか。

心臓が激しく脈打つのを感じた。

目の前の怠惰な天使は、自分の手抜きを隠すために、私を殺すという選択肢を持っているのだ。

「……私を、殺すのか?」

震える声で尋ねると、彼は信じられないものを見るような目で私を見返した。

「冗談やめてよ。それはそれで面倒じゃないか。僕はね、ただのズボラとはわけがちがうんだ。ズボラ中のズボラだよ。筋金入りなんだ。なめてもらったら困る」

彼はうんざりしたようにため息をついた。

「誰にも見つからないように人間をひとり殺すなんて、考えただけでも面倒くさい」

私は思わず、その場にへなへなと座り込んでしまった。

どうやら私の命は、この天使の徹底した「面倒くさがり」によって守られているらしい。

「じゃあ、私はどうなるんだ?このまま、自分と同じ顔が街を歩いているのを黙って見ていろと?」

「まあ、そうなるね。でも安心してよ。明日から僕は、きみが寝ている時間だけ活動することにするから。僕もね、天の下に同じ人間がいることがバレると都合が悪いんだ。ここは協力し合おうよ」

彼は弁当のゴミをまとめると、立ち上がって伸びをした。

協力し合うもなにも、こいつのズボラに巻き込まれているのはこちらなんだが。

しかし、私がガタガタ文句を言って「うるさいから殺しちゃった方が楽かも」と思われたら怖い。何しろズボラ中のズボラだ。

「お互い、深入りしないのが一番だ。きみはきみの人生を適当にやって。僕はきみの姿を借りて、適当にノルマをこなすから」

彼はそう言い残すと、自動ドアを抜けて夜の闇に消えていった。

翌朝、鏡を見ると、そこにはいつも通りの私の顔があった。

しかし、今どこかに同じ顔をしたヤツがいる。この顔は、今や私だけのものではないのだ。

仕事から帰り、夜寝る前にふと思うことがある。

今ごろ、あの怠惰な天使は、私の姿をしてどこで何をしているのだろうか。

もしかしたら、どこかのバーで高い酒を飲んでいるのかもしれないし、ただベンチで空を眺めているだけかもしれない。

あるいは、また別のコインランドリーで、コンビニ弁当を食べているのかもしれない。

誰かに目撃されて、「昨日◯◯にいましたね」などと声をかけられるかもしれない。その場合は、やはりそこにいたことにした方がいいのだろう。自分の命のためにも。

私の人生は相変わらず平凡で、劇的な変化など何一つない。

それでも、世界のどこかで自分の顔をした「何か」が動き回っていると想像すると、どうにも奇妙な感じがした。

彼がズボラであればあるほど、私の命は安泰なのだから、皮肉なものである。

私は電気を消し、布団に入って目を閉じた。

あいつに鉢合わせてしまっては都合が悪いので、夜遊びはしない。別に夜遊びが好きな人間じゃないから、まったく苦痛はない。

コピー元の私が定時に眠りにつき、コピーされた「何か」が活動を始める。

「おやすみ、もう一人の私」

そう呟いて、私は深い眠りに落ちていった。

翌朝、玄関にメモのようなものが落ちていた。

『会社の人に会ってしまいました。居酒屋◯◯の入口、26時頃、××さんと、△△さん。軽い挨拶のみ』

やはりそういうこともあるのだろう。辻褄を合わせていけばいいんだな。

ズボラなりに協力的。それが、今のところ唯一の救いだった。

窓の外では、今日も昨日と同じ太陽が昇り、同じ街並みが広がっている。

そのどこかに、私と同じ顔をして、私よりも少しだけ自由に世界を観測している存在がいる。

世界は、私たちが思っているよりもずっと適当で、そして少しだけ不思議なルールで回っているようだった。

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