#635 世界を彩る

ちいさな物語

ある朝、目を覚ますと、妻が私のことを「アジサイ」と呼んだ。

私はまじまじと彼女を見たが、その表情は至って真面目だった。

外出の準備をしようと、財布から運転免許証を取り出してみると、氏名欄には確かに太いゴシック体で「アジサイ」と印刷されていた。

スマートフォンのメールの宛先も、すべて「アジサイ様」となっている。

街を歩く人々が私を見て「アジサイさんだ。もうそんな季節ね」と微笑むことに、私は奇妙な恐怖を覚えた。

会社に着くと、デスクのネームプレートも瑞々しい青色をしたアジサイのイラスト付きのものに差し替えられていた。もちろん「アジサイ」と書かれている。

周囲の同僚たちは、何事もないかのように私をアジサイと呼ぶ。しかし呼び方が変わっただけで、いつも通りに接する。

かつての名前を思い出そうとしたが、記憶は空っぽで、雨の湿った匂いだけが脳裏をかすめた。

一ヶ月が経ち、世界から梅雨の気配が完全に消え去った日、私の名前は突如として「ヒマワリ」へと変化した。

妻は朝一番に「おはよう、ヒマワリ」と眩しそうな笑顔を向け、私の脳裏にはなぜか強い夏の太陽のような熱気が立ち上っていた。

免許証の文字も、スマートフォンの登録名も、すべてが鮮やかな黄色い大輪の花の名前に書き換わっていた。

自分が消えてしまう焦燥感に駆られ、私は役所へと向かった。戸籍を確認すべきだと思ったのだ。

しかし、役所に事の経緯を伝えると、別部署に案内された。役所の最上階には、案内図にない名称総合管理課という部署があるらしい。

初老の職員は、私の訴えを冷めた目で見つめ、事務的に説明を始めた。

「指定された人は、世界を彩るパーツとして花の名前を割り振られる規則なのです」

「そんな話は初めて聞きました。そもそも私には固有の名前があったはずです」と声を荒らげた。

職員は大きなため息をつき、分厚い台帳を開いて私に見せながら、静かに首を振った。

「固有の名前など……それこそ、世界を円滑に回すための仮の記号に過ぎないのですよ」

台帳には、街の人々の名前が、花の開花スケジュールと共に記されていた。アジサイやヒマワリもあったが、聞いたことがない長い名前の花も記載されている。

私は絶望のあまり役所を飛び出し、あてもなく照りつける太陽の下を走り続けた。

喉が渇き、足が動かなくなったとき、私は見知らぬ古い公園のベンチに辿り着いた。

そこには、擦り切れたコートを着た不思議な老人が一人、静かに座って空を見上げていた。

老人の周囲には、なぜか特定の季節に関係なく、様々な花の淡い香りが混ざり合って漂っていた。

私がベンチの端に腰を下ろすと、老人はこちらを振り向きもせずに、掠れた声で語りかけてきた。

「お前さんも、名前の移り変わりに疲れているのかい」と老人は言った。

「なぜわかるんですか」

「ヒマワリさん、だろう」

私は頷き、自分がそんな名前であることをなぜかすべての人が知っているという恐怖にあらためて震えた。

「自分の本当の名前を忘れてしまったんです」

私は世界の歯車にされていくことへの強い抵抗感を吐露した。

老人はふっと優しく微笑み、自身の枯れ枝のような手を私に見せた。

その皮膚の隙間からは、まるで水面から顔を出すように緑色の葉がいくつも見えるような気がした。

「スイレンさん……」

なぜかその名前が口をついた。

老人はゆっくりとうなずく。

「私はね、この街で咲くすべての花の名前を経験し尽くしてしまったのだよ」と老人は遠い目をしながら呟いた。

「春のサクラから冬のツバキまで、何百年もの時間をかけて、すべての名前を順番に名乗り終えたのだ」

「何百年……」

すべての花の名を巡り終えた者は、花という概念そのものになるのだという。

「名前を失うことは、自分を失うことではないのだよ」と老人は私の肩にそっと手を置いた。

その手からは、驚くほど心地よい暖かさと、大地の豊かな匂いが伝わってきた。

「それは世界そのものの美しさに溶け込み、永遠に生きることなのだから」と老人は言った。

「永遠に生きるのですか」

老人の穏やかな顔を見ているうちに、私の焦燥感は不思議と消え去っていった。

世界の一部になることが、これほどまでに安らかで満ち足りたことだとは、思いもしなかった。

気がつくと老人の姿はなく、そこには一輪の美しい野の花が揺れていた。

やがて激しい夏が過ぎ去り、街に涼しい秋の風が吹き始める頃、私の名前は予期していた通り「コスモス」へと変わった。

朝、妻から「いってらっしゃい、コスモス」と声をかけられたとき、私はもう以前のような恐怖を感じることはなかった。

私は軽やかな足取りで玄関を出て、澄み切った秋の青空を見上げた。

私の身体は、まるで秋風に乗ってどこまでも飛んでいけそうなほどに軽く、自由な感覚に満ち溢れていた。

私はただ、そこにあるだけである。固有の名前を持っていたときと何も変わらない。

老人のすべてを受け入れたような、おだやかな存在感を私も早く手に入れたいと思っていた。

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