#626 居酒屋の観察者

ちいさな物語

私はお酒がほとんど飲めない。

カシスオレンジを一杯飲むだけで顔が真っ赤になり、二杯目には頭痛が始まるほどだ。

そんな私が、毎週末になると決まって居酒屋へ足を運ぶ。

目的はお酒ではなく、おいしい食事とそこに集まる人間たちの営みだ。

居酒屋という場所は、人間の素顔が最も出やすい場所だと思う。

真面目そうな会社員が、上司の悪口を大声で叫んだり、おどけてコントを始めたりする。

若いカップルが、互いの距離感を測りかねて、もどかしい会話を続けている。

そんな光景を、私はウーロン茶を片手に眺めるのが、何よりも好きだった。

いつも私は、店全体を広く見渡せる、カウンターの最も端の席に座る。

そこは誰にも邪魔されずに、店内のドラマを鑑賞できる特等席だった。

ある年の秋口、その店に私と非常によく似た行動をとる男が現れた。

男は、カウンターの真向かいにある壁際のテーブル席に座っていた。

そこもまた、店全体を見渡せるもう一つの特等席だった。

彼の前には、小さなグラスに入った琥珀色の液体が置かれていたが、それが一向に減る気配がなかった。

男はただ静かに、そのグラスのふちを指先で弄びながら、店内の客たちをじっと見つめていた。

彼は楽しむ風でもなく、まるで重要なデータを収集するかのような、静かな目をしていた。

私は完全に、その男の存在に釘付けになってしまった。

人間観察を趣味とする私が、初めて「観察する側」の人間を観察することになったのだ。

それからというもの、私は毎週末、その店に通ってはいつも通りの店内を眺めることに加えて、男の観察も続けた。

男は必ず金曜の夜八時に現れ、同じ席で一杯の酒を前に店を見渡していた。

彼は一体何者なのか、小説家か、あるいは何かの調査員か。いや、探偵? それとも某国の工作員?

私の妄想は膨らむばかりだった。

変化が訪れたのは、男を見かけるようになってから一ヶ月が経った頃の、ひどく雨が降る夜だった。

その日の店内は、雨のせいかいつもより客足が鈍く、静かだった。

男は相変わらず定位置に座り、店を見渡していた。

その時、店に一人の青年がふらりと入ってきた。

青年は酷く疲弊した様子で、濡れた上着もそのままに、ただ一点を見つめて座っていた。

なかなか注文をせず、店員にうながされて、投げやりに枝豆とビールを頼む。

私はその青年をじっくりと観察していた。

何だかとても嫌な予感がする。食事を終えたら自ら命を絶ってしまいそうな……。

次の瞬間、向かいの席の男が、いつもと違う動きを見せた。

男は初めて、自分のグラスの中身をぐいと飲み干したのだ。

そして、静かに立ち上がり、青年の席へと歩いて行った。

男は青年の前の席に腰かけると、懐から古びた手帳を取り出し、青年に向けて開いた。

遠くて会話は聞こえなかったが、青年は男の手帳を見た瞬間、目を見開き、そこから大粒の涙を流し始めた。

男は青年の肩を優しく叩くと、そのまま会計を済ませて、雨の中へ姿を消した。

残された青年は、なぜかすっきりとした表情で、きちんとした食事を注文し始めた。焼き魚に、大根サラダ、そして味噌汁。理想的だ。

私はどうしても好奇心を抑えきれなくなり、千円札を何枚かカウンターに置くと、男を追いかけて店を飛び出した。

「お客さん! お釣り、お釣り!」

店員の声が後ろから聞こえたが、それどころではない。こんなおもしろそうな出来事を放っておける理由がない。

雨の中、傘もささずに歩く男の背中に、私は息を切らしながら声をかけた。

「あ、あの、すみません」

男は足を止め、ゆっくりと振り返った。

その瞳はいつも通り静かだった。

「ああ、きみか。向かいの席の――」

男は最初から、私の視線に気づいていたのだ。私は恥ずかしさで顔が熱くなったが、思い切って尋ねた。

「あなたは、あの店で何をしているんですか。さっきの青年に、何を見せたんですか」

男は少しだけ目元を緩めた。

「私はきみが同業者だと思っていたんだが」

「同業者?」

男は少し笑った。

「信じる必要はないが、我々は人間ではないよ。人間に見えているだろうが、そうではない」

どういうことだ?

一歩後ろに下がった私に、男は持っていた手帳を差し出した。

「これは――何も書かれていない?」

手帳のページは真っ白だった。

「人はね、絶望したり疲れ果てたりすると、視野が狭くなってしまうものさ。そうなった人だけに書いてあるものが見えるんだ」

男は静かな声で続けた。

「――救いの言葉が」

救いの言葉? 宗教か何かだろうか。思わず、顔がこわばってしまう。私の表情を見て、男は苦笑した。

「それはあながち間違いじゃない」

今、心を読まれたのだろうか。驚いて顔をあげた。

「私はね、業を背負ったままの死者だよ。人間を何人か救わないと自分が救われないのさ」

男は手帳を懐にしまう。

「あの青年は今日、すべてを失い絶望していた。詳しいことは知らないよ。私に見えるのは心の動きだけだ」

それからぽかんとしている私を見て、少し笑った。

「きみの観察眼は素晴らしいね。気づいたんだろう? あの青年が店を出たあとにどうなってしまうのか」

確かにものすごく嫌な予感はしたが――それはただの予感だ。

「いつか誰かのためにその力を使う日が来るかもしれないね。私もかつてそうだった。だからこの方法で救われようとしている」

男はそう言い残すと、夜の闇の中へ消えていった。

私は一人、雨の中に立ち尽くしていた。

次の週の金曜日、私はいつものカウンターの端に座った。

向かいのテーブル席は空席のままだった。

私はウーロン茶を一口すする。

そして、隣の席で寂しそうに下を向いている老人の横顔に、そっと視線を向けた。

私の人間観察は、その日から少し意味を変えることになった。

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