私はお酒がほとんど飲めない。
カシスオレンジを一杯飲むだけで顔が真っ赤になり、二杯目には頭痛が始まるほどだ。
そんな私が、毎週末になると決まって居酒屋へ足を運ぶ。
目的はお酒ではなく、おいしい食事とそこに集まる人間たちの営みだ。
居酒屋という場所は、人間の素顔が最も出やすい場所だと思う。
真面目そうな会社員が、上司の悪口を大声で叫んだり、おどけてコントを始めたりする。
若いカップルが、互いの距離感を測りかねて、もどかしい会話を続けている。
そんな光景を、私はウーロン茶を片手に眺めるのが、何よりも好きだった。
いつも私は、店全体を広く見渡せる、カウンターの最も端の席に座る。
そこは誰にも邪魔されずに、店内のドラマを鑑賞できる特等席だった。
ある年の秋口、その店に私と非常によく似た行動をとる男が現れた。
男は、カウンターの真向かいにある壁際のテーブル席に座っていた。
そこもまた、店全体を見渡せるもう一つの特等席だった。
彼の前には、小さなグラスに入った琥珀色の液体が置かれていたが、それが一向に減る気配がなかった。
男はただ静かに、そのグラスのふちを指先で弄びながら、店内の客たちをじっと見つめていた。
彼は楽しむ風でもなく、まるで重要なデータを収集するかのような、静かな目をしていた。
私は完全に、その男の存在に釘付けになってしまった。
人間観察を趣味とする私が、初めて「観察する側」の人間を観察することになったのだ。
それからというもの、私は毎週末、その店に通ってはいつも通りの店内を眺めることに加えて、男の観察も続けた。
男は必ず金曜の夜八時に現れ、同じ席で一杯の酒を前に店を見渡していた。
彼は一体何者なのか、小説家か、あるいは何かの調査員か。いや、探偵? それとも某国の工作員?
私の妄想は膨らむばかりだった。
変化が訪れたのは、男を見かけるようになってから一ヶ月が経った頃の、ひどく雨が降る夜だった。
その日の店内は、雨のせいかいつもより客足が鈍く、静かだった。
男は相変わらず定位置に座り、店を見渡していた。
その時、店に一人の青年がふらりと入ってきた。
青年は酷く疲弊した様子で、濡れた上着もそのままに、ただ一点を見つめて座っていた。
なかなか注文をせず、店員にうながされて、投げやりに枝豆とビールを頼む。
私はその青年をじっくりと観察していた。
何だかとても嫌な予感がする。食事を終えたら自ら命を絶ってしまいそうな……。
次の瞬間、向かいの席の男が、いつもと違う動きを見せた。
男は初めて、自分のグラスの中身をぐいと飲み干したのだ。
そして、静かに立ち上がり、青年の席へと歩いて行った。
男は青年の前の席に腰かけると、懐から古びた手帳を取り出し、青年に向けて開いた。
遠くて会話は聞こえなかったが、青年は男の手帳を見た瞬間、目を見開き、そこから大粒の涙を流し始めた。
男は青年の肩を優しく叩くと、そのまま会計を済ませて、雨の中へ姿を消した。
残された青年は、なぜかすっきりとした表情で、きちんとした食事を注文し始めた。焼き魚に、大根サラダ、そして味噌汁。理想的だ。
私はどうしても好奇心を抑えきれなくなり、千円札を何枚かカウンターに置くと、男を追いかけて店を飛び出した。
「お客さん! お釣り、お釣り!」
店員の声が後ろから聞こえたが、それどころではない。こんなおもしろそうな出来事を放っておける理由がない。
雨の中、傘もささずに歩く男の背中に、私は息を切らしながら声をかけた。
「あ、あの、すみません」
男は足を止め、ゆっくりと振り返った。
その瞳はいつも通り静かだった。
「ああ、きみか。向かいの席の――」
男は最初から、私の視線に気づいていたのだ。私は恥ずかしさで顔が熱くなったが、思い切って尋ねた。
「あなたは、あの店で何をしているんですか。さっきの青年に、何を見せたんですか」
男は少しだけ目元を緩めた。
「私はきみが同業者だと思っていたんだが」
「同業者?」
男は少し笑った。
「信じる必要はないが、我々は人間ではないよ。人間に見えているだろうが、そうではない」
どういうことだ?
一歩後ろに下がった私に、男は持っていた手帳を差し出した。
「これは――何も書かれていない?」
手帳のページは真っ白だった。
「人はね、絶望したり疲れ果てたりすると、視野が狭くなってしまうものさ。そうなった人だけに書いてあるものが見えるんだ」
男は静かな声で続けた。
「――救いの言葉が」
救いの言葉? 宗教か何かだろうか。思わず、顔がこわばってしまう。私の表情を見て、男は苦笑した。
「それはあながち間違いじゃない」
今、心を読まれたのだろうか。驚いて顔をあげた。
「私はね、業を背負ったままの死者だよ。人間を何人か救わないと自分が救われないのさ」
男は手帳を懐にしまう。
「あの青年は今日、すべてを失い絶望していた。詳しいことは知らないよ。私に見えるのは心の動きだけだ」
それからぽかんとしている私を見て、少し笑った。
「きみの観察眼は素晴らしいね。気づいたんだろう? あの青年が店を出たあとにどうなってしまうのか」
確かにものすごく嫌な予感はしたが――それはただの予感だ。
「いつか誰かのためにその力を使う日が来るかもしれないね。私もかつてそうだった。だからこの方法で救われようとしている」
男はそう言い残すと、夜の闇の中へ消えていった。
私は一人、雨の中に立ち尽くしていた。
次の週の金曜日、私はいつものカウンターの端に座った。
向かいのテーブル席は空席のままだった。
私はウーロン茶を一口すする。
そして、隣の席で寂しそうに下を向いている老人の横顔に、そっと視線を向けた。
私の人間観察は、その日から少し意味を変えることになった。


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