#622 溝

ちいさな物語

携帯の画面が、短く震える。

「暇なら、うちに来ないか」

高校からの友人である佐々木の、ごく普通の誘いだった。

ちょうど手持ち無沙汰だった私は、すばやくメッセージに返信し、上着を羽織って彼が暮らすマンションへと向かった。

駅から徒歩五分、築年数は浅く、外観は何の変哲もないごく一般的な集合住宅だった。

エントランスのインターホンを押し、彼の応答を待つ。

しかし、十秒経っても、二十秒経っても、スピーカーからは何も聞こえてこなかった。

もう一度押してみたが、やはり応答はない。

トイレにでも入っているのだろうか。悪いと思ったが、偶然帰ってきたらしい住民の後ろについて、オートロックを通過し、エレベーターで彼の部屋がある四階へと上がった。

扉の前まで行き、念のためにノックをしてからドアノブに手をかける。驚いたことに、鍵はかかっていなかった。

「不用心だな……。おい、佐々木! 入るぞ」

声をかけながらドアを開けたが、返事はなかった。

玄関に足を踏み入れた瞬間、妙な違和感に襲われる。言葉にはできないが何かがおかしいような気がしていた。

電子ケトルで湯を沸かしているらしいシューッという音、バラエティ番組らしいテレビの音声が小さく聞こえていた。

「佐々木、来たぞ〜」

リビングへ進むと、電子ケトルが、カチッと音を立てて自動的にスイッチが切れた。今まさにお湯が沸いたらしい。注ぎ口からは、白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。

その横にはマグカップが2つと、インスタントコーヒーの瓶が出してあった。コーヒーを淹れてくれるつもりで準備していたらしい。

「トイレか?」

一応、トイレをノックしたが反応はない。そっとドアを開けたが、誰もいなかった。

「まさか、この年になってかくれんぼかよ」

カーテンをめくって、寝室ものぞいてみたが、家主はどこにもいない。

「コンビニかな。でも鍵もかかってなかったし……」

ローテーブルの上には、袋が開けられたままのポテトチップスが置かれていた。この部屋に入ったときの違和感がどんどん膨らんでいく。

部屋干しされた洗濯物が、稼働し続ける空調の風を受けて静かに揺れていた。

どこをどう見ても、ついさっきまで佐々木がそこにいたとしか思えない。

それなのに、浴室をのぞいても、ローテーブルの下を見ても、彼の姿はいっこうに見つからなかった。

まるで、有名なメアリー・セレスト号の事件のように、人間だけが忽然と消え去ってしまったかのようだった。

私は佐々木の携帯に電話をかけたが、ローテーブルの読みかけの雑誌の間に挟まれた彼のスマートフォンが妙に明るい呼び出し音を発しながら震えているだけだった。

「携帯を置いてどこかへ行くなんてことあるか?」

そして――佐々木はそのまま見つからなかった。

その後、家族が警察にも届け出たらしいが、事件性がないと判断されたと聞いた。部屋には誰かと争った形跡もなく、物がなくなっているなどの犯罪の痕跡もない。

何らかの事情があり、自ら行方をくらませたのではないか――これが、警察の見解であった。

それから数ヶ月が経ち、佐々木は今も見つかっていない。

思い返せば、あの部屋に入るたびに妙な違和感をおぼえていた。

佐々木は家賃が安いと喜んでいたが、駅近で、ファミリー向けとしても通用する広さのマンションがそんなに安いものだろうか。

事故物件でもなければ、過去に心霊現象の報告があったわけでもないのになぜか安い。

かつて人間が煙のように消えてしまうことを、人々は「神隠し」と呼んで恐れた。

それは天狗や狐の仕業だとされてきたが、もしかしたらこの現代のコンクリートジャングルでも同じ現象が起こる可能性があるんじゃないか。

それは山や森に限らず存在する空間の溝のようなもので、そこに滑り落ちてしまうような現象だったのではないだろうか。

あの部屋はその危険性をはらんでいたから家賃が安かった……そんな妄想が頭から離れない。

窓の外では、いつもと変わらない都会の喧騒が流れている。何万人もの人間が行き交い、絶え間なく音が響く街。

そのすぐ隣にそういった「溝」が存在するのかもしれない。

何の予兆もなく、ただ一瞬の隙を突かれて、空間の裂け目に滑り落ちる――そんな溝だ。

私がそんな妄想に耽っていると、ふと、背後の壁からかすかな音が聞こえたような気がした。

それは、誰かがポテトチップスをかじるような、パリッという小さな音だった。

もしかして佐々木はどこか遠くへ行ったわけではないのかもしれない。

彼は今も、あの部屋の壁の向こう側、あるいは空間の隙間に、あの日のまま閉じ込められているのだ。

駅へと向かう賑やかな道を進みながら、私は何度も後ろを振り返った。

立ち並ぶ無数のマンションの窓が、すべてこちらをじっと見つめる巨大な目のように見えて仕方がなかった。

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