#623  三人のアオ

ちいさな物語

あれは、今年の梅雨が始まったばかりの、ひどく蒸し暑い日のことでした。

私はSNSで知り合った「アオ」という人物と、初めて対面することになっていたのです。

お互いに素性は知らず、アカウントのアイコンはきれいな青空の写真だけでした。

数ヶ月の間、私たちは毎日のようにメッセージを交わしていました。

それは誰でも見られる投稿への返信だったり、DMと呼ばれるプライベートなやり取りだったりしました。

会うにあたって、アオから少し変わった提案をされました。

初めて会うのだから、お互い姿がわからないことを利用してちょっと遊んでみませんか? 現代の利便性から離れて、自身の直感を信じてみましょう。

アオが指定したのは、街の片隅の地下にある「純喫茶・時幻」という渋い店名のお店でした。

そこは地下深くにあるため、スマートフォンの電波が一切届かない、あえて「圏外」を売りにしている珈琲店だったのです。

要するにスマートフォンで連絡を取りながら会うのではなく、「この人だ」と直感でわかりあえるか試してみようということらしい。

ただ、それだけだと本当に会えない可能性もあるので、「胸元に銀色の飛行機のブローチをつける」ということだけ約束しました。

それはSNSで仲が良い人たちの間でちょっと話題になったアイテムでした。私もアオも持っているものだったのでちょうどよかったのです。

私は少し緊張しながら、地下への薄暗い階段を降りて、重い木製の扉を押し開けました。

店内には珈琲の香りが漂い、古い柱時計の秒針の音が響いていました。私は約束のブローチをさりげなく隠して、あたりを見渡しました。

すると、店の奥にある四人掛けのボックス席が気になりました。

そこには年齢も性別もバラバラな三人の人物が並んで座っており、一人はスーツの青年、もう一人はワンピースの少女、最後の一人は上品な初老の女性でした。

三人でいるのだから違うだろうと思ったのですが、どうにも気になりました。

というのも、三人とも自分と同じようにさりげなく胸の辺りを隠していたのです。

私は戸惑いながらもその席へと近づいていきました。

「あの、もしかして、アオさん……ですか」

私が声をかけると、三人は顔を上げ、まったく同じタイミングで優しく微笑んだのです。

スーツの青年が、最初に口を開きました。

「ええ、私がアオですよ。あなたが送ってくれた、雨の日の紫陽花の写真、とてもきれいでしたね」

それは確かに私が一ヶ月前にアオのDMに送った写真のことでしたが、隣の少女がそれを遮るように言ったのです。

「何を言っているの、私がアオだよ。君が仕事で失敗して泣いた夜、朝まで励ましたの、忘れたの?」

そのエピソードも間違いなく私とアオだけの秘密のはずでしたが、さらに初老の女性が静かに紅茶のカップを置きながら続けました。

「いいえ、私がアオです。あなたがいつか行ってみたいと言っていた、北欧の小さな港町の話、もっと聞かせてくださいな」

私は頭がどうにかなりそうになりながら、慌ててポケットからスマートフォンを取り出しましたが、画面の右上には「圏外」の文字が表示されているだけです。

過去のやり取りを見返すことも、彼らにメッセージを送ることもできません。

目の前にいる三人は、誰もが本物のアオしか知り得ない情報を持っていました。

本物のアオがいじわるをしているのかもしれません。

「自分の直感を信じる遊び」とはこれのことなのでしょうか。私は三人の顔を交互に見つめながら、必死に彼らの意図を読み取ろうとしました。

しかし、彼らの瞳には一切の敵意も嘘もなく、ただ私と会えたことを純粋に喜んでいるようにしか見えなかったのです。

その時、私は店内の不思議な空気に気がつきました。ここは、電波が届かないだけの場所ではないのかもしれない。

私は、自分がSNSの中で「アオ」という存在をどう捉えていたかを思い出しました。

アオの文体は、ある時は知的で冷静、ある時は無邪気でかわいらしく、またある時は包容力に満ちていました。

ネットの海に漂う不確実な記号。

全員、本物のアオだ……。これが私の直感が出した答えでした。

その瞬間、私の心から恐怖や混乱は消え去り、彼らは誰も嘘をついておらず、全員が私の中に存在していた本物のアオなのだと理解したのです。

私は深く息を吸い、空いていた席に腰を下ろしました。

「すみません、お待たせしました」

私が微笑むと、三人のアオは嬉しそうに頷きました。

「さて、何から話しましょうか」

私は店員を呼び、全員分の珈琲を注文しました。スマートフォンの画面は暗いままポケットの中で静かに眠っています。

私たちは、誰が本物かを証明する不毛な答え合わせをやめました。探るような視線も、疑いの言葉も、ここには必要ありませんでした。

そして、電波の届かない地下の部屋で、三人のアオと一人の私による、奇妙で愛おしいおしゃべりを始めたのです。

現実よりも少しだけ賑やかな、けれどどこまでも純粋な言葉の交わし合いが、そこにはありました。

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